■芥川賞受賞作『介護入門』をどう読むか。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」     

芥川賞受賞作『介護入門』をどう読むか。
 すでに本欄でも取り上げ、それなりに高く評価していたモブ・ノリオの『介護入門』が新しい芥川賞に選ばれた。今回の芥川賞の候補には、他に新鋭作家として私が最近高く評価している絲山秋子の『勤労感謝の日』や、あるいはすでに三島賞受賞作家で、一部では覆面作家としてもてはやされている舞城王太郎の『好き好き超愛してる』などもあったが、大方の予想に反して『介護入門』があっさり受賞してしまったらしい。
 なぜ『介護入門』だったのか。
 そこにはやはり「文学とは何か」、「小説とは何か」という根本的な問題が絡んでいたように思われる。言い換えれば、『介護入門』は、他の候補作に比してかなり本質的、原理的な小説作品だったということだ。誰も積極的に押したわけでもないのに、いつのまにか、他の候補作品を押しのけて、あれよあれよというまに受賞作に決定してしまったらしいことが「選評」からもうかがえるが、まさしく『介護入門』はそういう不思議な小説である。この小説にはそれだけの「目に見えない力」が潜んでいる。
 むろん、それは、この小説が「老人介護」という現代的な社会問題を取り上げ、それをうまく作品化したということとは関係がない。はっきり言って「介護問題」はダシに使われているだけである。この小説は、麻薬中毒の不良息子が突然、呆け始めた祖母の看病を異常な熱心さで始めるというストーリーだが、老人介護は単に素材であり舞台装置であるにすぎない。ここでは老人介護という舞台設定の上で、極限的な一種の文学的思考実験が繰り返されている。ここには作者の並々ならぬ鋭敏な批評精神と存在感覚の発露がある。むろん、そこにこの小説の深さがある。
 そういうことに無自覚なままこの小説を読むと、芥川賞選考委員の一人である河野多恵子のように「モブ・ノリオの『介護入門』の受賞は意外であった」と言ってしまったり、また石原慎太郎のように、「この作品には、神ではない人間が行う『介護』という現代的主題の根底に潜んで在るはずの、善意にまぶされた憎悪とか疎ましさといった本質の主題が一向に感じられない。」というような見当違いの批評をしてしまうことになる。
 「介護」という現代的な社会問題にこだわりすぎるから、批評精神や存在感覚というような小説的問題の本質が見えなくなるのである。イデオロギー的次元(素材、舞台装置、テーマ)にばかり気を取られて、存在論的次元の問題が見えないのである。むろん、小説の存在根拠は存在論的な次元にある。それを支えるのは批評精神と存在感覚である。
■物語構造や言語体系を破壊し再創造せよ。
 そもそも石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞した時も同じような文学的思考実験がなされていたのである。そこにも、素材や舞台装置としての若者たちの新風俗(太陽族?)だけではなく、過激な批評精神と鋭敏な存在感覚が横溢していた。それは素材やテーマとは必ずしも連動してはいない。ちなみに石原慎太郎はそれ以後『太陽の季節』を超える作品を書いていない。むろんそれは決して批判されるべき事ではない。むしろそれは、『太陽の季節』という小説が、二度と書けないようなそういう深い存在論的な、そして神秘的な小説だったということを証明している。『介護入門』も、『太陽の季節』ほど派手ではないが、そういう種類の作品であることは間違いない。
 本質的な小説とは、われわれが保持している既成の物語構造や言語体系を破壊し再創造してしまうような何かをその作品の内部に秘めている。われわれは小説を読むことによって存在そのもののの神秘と源泉に遭遇し、自分自身の存在の崩壊と創造を体験する。
 一編の小説を読むことによって人生観が変わることがしばしばある。そしてその後の生き方までも変えられてしまう。そういう不思議な力を秘めているのが本来的な小説の力である。それは覚醒や転向をもたらす神秘的な宗教体験に似ている。
 モブ・ノリオの場合、そういう思考実験の具体的な現れの一つが、 
 ≪YО、FUCKIN、朋輩(ニガー)、俺がこうして語ること自体が死ぬほど胡散臭くて堪らんぜ、朋輩(ニガー)。夢かリアルか、コマーシャルか、コマーシャル・ビデオか、麻の灰より生じた言い訳か、悟っては迷う魂の俺から朋輩(ニガー)へ、どうしたって嘘ばかりになるだろうから聞き流してくれ。≫
 という「ラップ的文体」とか言われているものだろう。
 モブ・ノリオはこの一つの作品で「文学界」新人賞を受賞し、同時に芥川賞まで受賞してしまった。作者にとっても実質的にはおそらく第一作目の作品であろう。純文学の恐ろしさはそこにある。モブノリオには、もう二度とこういう作品は書けないかもしれない。しかしそれでいいのである。芥川賞は伝統的に努力賞ではない。当たり外れの大きい、いわゆる一発勝負の新人賞である。だから芥川賞作家には、芥川賞の受賞を機に消えていく作家が少なくない。芥川賞受賞がピークになってしまうのだ。言い換えれば、芥川賞にはそういう海のものとも山のものともわからないような不可解な作品がしばしば選ばれるということだ。選考には失敗も多いが、しかし成功した時には、新しい歴史の1ページを切り開くようなとんでもない作品が選ばれることになるのだ。
 ■『介護入門』は何処から生まれてきたのか。
 「文學界」9月号の「モブ・ノリオ徹底インタビュー」と前田塁の「小説の設計図(第二回 虚構の(非)強度)」、あるいは浅田彰の「熊野大学日記から」(「文學界」10月号)や津島佑子の「中上健次がいた」(「すばる」10月号)、柄谷行人の「近代文学の終わり」(「早稲田文学」夏期号)などを読むと、モブ・ノリオという作家が、どういう時空間から生まれてきたかを知ることが出来る。
 ではどういう時空間か。それは中上健次亡き後、柄谷行人渡部直已浅田彰島田雅彦奥泉光……らを中心に、いわゆるポスト・モダン派と言われている作家や評論家たちが、毎年、中上健次の故郷・新宮で開いている夏期文学セミナー「熊野大学」である。私はこのグループの動きに対して、特に柄谷行人を中心とする露骨な政治的党派性のゆえに、いつも批判的であったが、モブ・ノリオがこのグループの中から生まれてきたということを知って、考え方を改めざるをえないと思った。モブ・ノリオは、このセミナーに「生徒」として頻繁に参加し、かなり強い影響を受けているように思われる。それは『介護入門』という作品の批評性とも無縁ではない。モブ・ノリオは、インタビューに答えて、こう言っている。
 ≪――学生時代、中上健次ゆかりの熊野大学夏期セミナーに参加されていた体験は大きかったのではないでしょうか。
 モブ  熊野大学は、専攻科の夏に三回行きました。94年の三回忌セミナーで、初めて奥泉光さんが来はったときからです。浅田彰さん、柄谷行人さん、渡部直已さんも参加されていました。
――どういう刺激を受けましたか。
 モブ  こと文学に関しては、それまで大学の中しか知りませんでした。でも、熊野大学セミナーが終わって、柄谷さんたちが野球しているのを見物しながら内藤という決定的な友達ができたり、……。≫
 モブ・ノリオは、大阪芸大の専攻科のころ、熊野大学に参加し、そこで様々な人間関係を築き、その人脈を通じて、近畿大学柄谷行人やジャーナリスト専門学校のスガ秀美の授業をニセ学生として聴講し、東大の自主ゼミでは、みずから声をかけて古井由吉を招き、一年間の講義を受けるなどしている。おそらくモブ・ノリオは、この頃、まだ何物でもなかったにもかかわらず、現代の日本文学の最先端を担う作家や評論家たちと、親しく交流している。むろん、似たようなことをしている学生や作家志望者たちはたくさんいたであろう。しかし、モブ・ノリオの小説の持つ批評性がここらあたりの人間関係や交流から影響を受けていることは間違いない。今時としては珍しいマンツーマンの師弟関係からモブ・ノリオという作家は誕生したと言っていい。
■マスコミ的物語から遠く離れて……。
 私は、文学や小説の地盤沈下の大きな要因の一つが、新人作家誕生のシステムが同人雑誌などによるマンツーマンの師弟関係から文藝雑誌の新人賞中心に移行したことにあると思っている。昨今の新人作家の多くは、身近に先輩の作家や批評家たちと接する機会がない。つまり作家や批評家を存在として知る事なしにデビューし、どちらかといえば、雑誌の編集者の言いなりになっていく例が多い。
 モブ・ノリオも「文學界」新人賞からデビューしてはいるが、他のの多くの新人作家たちとは事情が少し違っている。つまりテビュー以前のモブ・ノリオの交遊関係を知ると一種の驚きを感じるのだ。モブ・ノリオは、柄谷行人浅田彰だけではなく、ほぼ同世代の文藝評論家・池田雄一などとも親しく交流していると言う。やはり、そうだったのかという驚きを禁じえない。
 さて、モブノリオは、芥川賞受賞決定直後の記者会見に奇抜な格好で現れ、そこで奇をてらったような、おかしなパフォーマンスを演じたらしい。そしてそれは新聞記者たちにかなり不評だったようだらしい。その後のマスコミ報道にそれは反映している。新聞、週刊誌、テレビは、モブ・ノリオに対して、また『介護入門』という作品に対して、いずれも予想以上に冷淡であったように見える。前回の芥川賞の受賞者は、19歳と20歳の女性であったこともあって新聞の第一面に大きな顔写真とともに、マスコミが愛好する立身出世的な「メロドラマ」として紹介されたが、モブ・ノリオの場合は、まったく逆だったようだ。
 しかし、モブ・ノリオは、マスコミに無視されることを敢えて選択したように見える。むろんそこにモブ・ノリオという新しい作家の新しい批評と存在論がある。モブ・ノリオは、マスコミの物語的な期待の地平に収まることを拒絶したのである。その拒絶のスタイルにこそモブ・ノリオという作家の新しさがある。つまりそこに新しい批評と存在感覚が生きている。
 前田塁は、この「拒絶の姿勢」について、こう書いている。
≪「文學界」という文藝雑誌の新人賞を獲得したモブ・ノリオ氏の小説「介護入門』が芥川賞をかっさらい、坊主頭にサングラスにTシャッという風貌、マイクに向けてのダイビングと「舞城王太郎です」というひとことで始まった記者会見のおかげで、よく言えば時のひと、口悪いむきにはイロモノ扱いされているのは御存じのとおりだが、氏の友人が撮影したというVTRで全貌を確かめれば、それらはたんなる「目立ちたがり」ではなく、現代の「小説」をとりまく困難への抵抗の身振りにほかならないことがよくわかる。≫