■情報から思想へー「日本保守主義研究会」の「澪標」の試み。

昨今の文学や政治は金儲けや出世、権力欲、名欲に直結して語られることが少なくない。しかし、文学も政治もそんなに卑俗な現象にのみに関わるものではない。むしろ、文学も政治も人間存在の根源に関わっているのであり、それはきわめて観念的で、非合理、且つ複雑怪奇なものである。文学が政治に、あるいは政治が文学に深く関わるのはそういう場所においてである。政治を語らない文学が高踏遊民的な文学趣味に堕落し、文学を語らない政治が政治の瑣末な技術主義に堕落するのは必然である。たとえば、ドストエフスキー小林秀雄も、政治や革命を批判しながら政治や革命の中に人間存在の最も底深い神秘と謎を探ったのである。要するに政治や革命はきわめて文学的なのであり、そして同時に文学や思想は、常に政治的なのである。
さて、前回、「早稲田文学」の復刊最新号の試みについて書いたので、今回もまず、文学とは直接的関係はないかもしれないが、思想的に見れば必ずしも無縁とは言い切れないかもしれないというわけで、これからの政治思想運動に新しい伊吹を吹き込むことになるだろうと思われる保守系の思想運動グループの雑誌「澪標」(れいひょう)を取り上げたい。小冊子だが中身は濃く、刺激的である。「澪標」は、「日本保守主義研究会」という、まだ20代の若者たちが中心の保守系の思想集団の小さな機関紙ではあるが、そこで議論されている問題は、商業主義とイデオロギー主義に流された既存のオピニオン雑誌には決して載ることのないもので、つまりわれわれが、いつの間にか忘れてしまっている基礎的な問題であって、かなり本質的、原理的な問題である。たまたま今回、「澪標」の編集長が、早瀬善彦(京都大学大学院博士課程)に交替したのを機縁に、誌面が大幅にリニューアルされ、念願の本格的な思想雑誌、オピニオン雑誌として再出発することになったのを記念して、そこに思想史的に画期的な意義を持つと思われる対談「情報から思想へ」が掲載されている。実は、私も、思想的に共感し、同誌に「丸山真男小林秀雄(一)」を連載を開始しているのだが、私の連載評論はともかくとして、この小さな雑誌の編集主幹の岩田温と新編集長・早瀬善彦の長編対談は、昨今、各種の論壇オピニオン雑誌が、「中国問題」「慰安婦問題」「南京事件問題」「拉致問題」「チベット問題」……等、次々に発生する時局的なテーマを追いかけることに汲々として、思想や哲学のような原理的問題をおろそかにしている現在、きわめて重要である。むろん彼らとしても、「中国問題」や「チベット問題」等など、目前の国際問題や国内問題をおろそかにしているわけではないが、ただそれだけで終わってしまう保守系の論壇オピニオン雑誌の思想的貧困に、あるいは売れっ子の保守思想家たちの思想的貧困に警鐘を鳴らしつつ、敢えて哲学や思想の問題に立ち返り、そこから「保守思想とは何か」、あるいは「思想とは何か」を原理的に考えようとしているわけだが、それは大いに評価できる、と言っておくべきだろう。
■歴史家と哲学者、あるいはイデオロギーと哲学。
たとえば、岩田温は、こんなことを言っている。
≪彼が(註―「オークショット」)、「政治哲学」という論文を書いているんですけども、その中で面白いことを言っています。哲学についてなのですが、彼は哲学とは何かと言うとき、゛radical subversive enterprise゛「根源的に破壊的な企て」であると言っているんです。/ これはどういうことかというと、オークショットによれば、歴史家を否定するわけではないんですが、歴史家というのは哲学的にみたら限界があるんですね。つまり、歴史家という人たちはどんなに自分で考えても、最終的には頼るべき根拠がある、つまり゛evidence゛ですね。日本語にすると、「証拠」。歴史家にはエビデンスがあって、そのエビデンスに基づいて物を作る。だから、エビデンスに対しては破壊的ではないわけですよ。エビデンスに基づいて物を作っているのが歴史家の歴史と言うものです。/ ところが思想家には、歴史家にとつてのエビデンスにあたるものがないんです。そこが哲学者と歴史家の一番の違いです。もちろん、マルクス自身は哲学者であったというべきでしょうが、マルクス主義哲学などというものは、イデオロギーであって、哲学ではない。≫
岩田が、ここで歴史家と哲学者、あるいはイデオロギーと哲学を対比した上で言おうとしている事は、昨今の論壇や思想界で、ほとんど問題にされなくなったもので、要するに、われわれが時局的、情勢論的問題にかまけている間に、忘却し、隠蔽し、抑圧している問題であろう。歴史家は、証拠(エビデンス)で満足し、そこに真偽の基準を置いているが、哲学者や思想家は、まさしくその証拠について、「証拠とは何か」と問うのである。それが、オークショットの言う「根源的に破壊的な企て」ということであろう。「南京問題」も「沖縄集団自決」も、そして他の様々な問題において、どんなに多くの証拠をかき集めたところで、真偽の最終決着はつかない。せいぜい、発言や証言や告白の自己矛盾を指摘することができるだけだ。言い換えれば、その「根拠の不在」、つまり虚無に直面した時、人は始めて何かを了解するのだ、と言っていい。たとえば、マルクスマルクス主義者ではなくて、マルクス主義という哲学体系は、誰にでも理解できるように、マルクスの思考を、エンゲルスが総括し、体系化したものであるが、われわれは、そのマルクス主義という哲学体系をマルクスの思想とを混同し、勘違いするのである。これが岩田が言わんとすることだろうが、このような分析と探求が実践されるならば、かなり哲学的に深いと言わなければならない。
■我々は哲学的、思想的保守だ。
早瀬は、より具体的にこう言っている。
≪口を開けば「天皇」しか言わない団体が保守派にいますね。皇居や靖国神社に祈っていれば日本は救われる。天皇陛下のつくられた和歌を胸ポケットに入れていれば日本は平和になる。こういうことを未だに本気で言っている人たちがいるのは、ちょっと驚きますからね。(中略)祈って救われるなら、人類社会にもはや問題はありませんね。(中略)桃源郷ですね。左翼の九条狂いとなにがちがうのか分かりません。/ 偉そうな言い方になってしまいますが、我々はこうした保守派とは一線を画しながら左翼と戦っていきたいですね。(中略)何度も言ってますとおり、我々の雑誌の存在意義、コンセプトは何をもっても思想するところにあるわけです。≫
早瀬が言っていることも、イデオロギーとしての保守思想、つまりドグマを信じるのみで、自らの頭で思考し、自らの足で立つことを断念し、思考停止状態に陥った昨今流行の保守思想とは一線を画すということだろう。確かに、今日、猫も杓子も「保守」や「保守思想」を語り、論じるのが現代のモードとなっているわけで、これは、私が学生時代を過ごした左翼全盛の時代、つまり全共闘時代にイナゴの大群の如く出現した「左翼かぶれ」とほとんど変わらないところの、一種の「保守かぶれ」と言っていい。そういう「保守かぶれ」と一線を画すためには、それなりの思想的、哲学的な修練と鍛錬を必要とするだろう。いずれにしろ、危険な橋を渡る必要があるのだ。そこで、早瀬は、こう言っている。
ハイデッガーは次のように述べています。「『なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?』という問いはわれわれにとっては、まず最も広い問いとして、次には最も深い問いとして、最後に最も根源的な問いとして、等級から言って第一の問いである。」/ ハイデガーは回りくどく語っていますか、考えてみれば当然の問いであるともいえます。確かに、誰であろうと、なぜ自分は存在しているのか、存在とは何か、ということを考え始めてみれば、永遠に止まらないわけです。≫
言うまでもなく、こういう問題意識は、もう文学や芸術の世界の問題意識と言っていいだろう。政治や政治思想を語る人間は、その語りが根源的である限り、つまり存在的ではなく存在論的であるかぎり、文学や芸術と無縁ではありえないだろう。だが、なんと文学や芸術と無縁な保守や保守思想家が多いことだろうか。言い換えれば、これは、「作品」を必要としない保守と保守思想家が存在する、ということでもある。岩田は、そこで、保守思想家に文藝評論家が多い理由を、次のように説明する。
≪だから文芸評論家が日本の保守に多かった理由は、やっぱり文芸評論家というのは作品を作りますからね。ところが、時局評論家は作品をつくりません。いつまで経っても。むしろ政治家が作品を作っていますからね。政治というのはやはり一つの製作でしようね。だから時局評論家というのはむしろその作品を見てるだけなんですよ。≫
まことに鋭い指摘である。問題は、それを具体的な「作品」の形で実践し、「作品」を製作することだろう。「作品」のない保守や保守思想家が、どれだけ饒舌に「保守とは何か」を語ったとしても、それは、所詮、外野席からの野次にすぎないのであって、それでは保守思想家の名に値しないということだろう。
■「文学界」新人賞の「選評」を読む。
私は、文芸誌の新人賞の「選評」を読むことに、新人賞の受賞作を読むことよりも、はるかに深い関心を持っているが、それはひとえに、そこが、新しく選者となった作家や批評家のもう一つの戦場と言っていいからだ。というわけで、「文学界」6月号で新人賞が発表になっているので、その選評を読んでみたわけだが、というのも、実は選考委員が新しいメンバーなので、とりわけ興味を持って読んでみたのだが、やはりおもしろかった。中でも飛びぬけて面白かったのは松浦理恵子の選評「逃げ道の先」であった。松浦は、確か20歳そこそこの時、「葬儀の日」という作品で「文学界」新人賞を受賞した作家のはずだが、その後、「親指Pの修行時代」等、余り派手ではないが、かなり個性的な作品で、中堅作家の一人にのし上がった、きわめて批評的な作家である。その松浦が、さっそく文芸評論家の斉藤美奈子の「情報批評」のいい加減さに噛み付いる。10年前の「文藝」新人賞の選考委員をしていた頃の話らしいが、それを最近、斉藤が高橋源一郎との対談で持ち出し、松浦を含む三人の女性選考委員が鹿島田真希『二匹』を熱烈に推したらしいが、その理由が選評に書いてないと批判したらしく、これが松浦を刺激したらしい。
斉藤美奈子さん、いい加減なことは言ってはいけません。『文藝』98年冬号掲載の私の選評に、鹿島田真希『二匹』を選んだ「理由」ちゃんと書いてある。≫
と書いた上で、斉藤の批評と批評の方法に鋭い突込みを入れている。「何ゆえに斉藤美奈子は近頃かくも弛緩しているのか」「責任を持って批評に当たっていただきたい」と。やはり、文学の生命線は、批評精神がの有無であることを、思い知らされた一幕であった。