■杉田俊介の「ロスジェネ芸術論」を読む。

文芸評論家の富岡幸一郎が、産経新聞のコラムで、「沖縄集団自決裁判」について、「何故、文芸誌は沈黙するのか」と、「文芸誌の沈黙」を糾弾していたが、たしかにその通りで、「沖縄集団自決裁判」はその主役が大江健三郎であり曽野綾子であるということからも想像できるように、賛否の立場はいろいろあるだろうが、文芸誌こそが真っ先に取り組むべき課題だと思うが、文芸誌には、いっさいそういう動きはなく、ただひたすら沈黙し、黙殺しているというのが実情である。おそらく、文壇や文芸誌に、それと正面から向き合うだけの活力がないということだろうと思う。むろん、文壇や文芸誌は、政治や思想から遠く離れて、孤独な密室の中で、ひたすら文学や小説に励んでいればそれでいいというものではない。文学が「学問研究」や「趣味娯楽」と違うのはその点である。したがって文壇の沈黙、文芸誌の沈黙は、きわめて不自然なことである、と思っていたら、「沖縄集団自決裁判」とは異なるが、文芸誌に新しい動きが胎動しつつあるようだ。
「ロスジェネ」、つまり「ロストジェネレーション」という言葉が、最近、しばしば使われるようになったことは、雨宮処凛等の書くものから若干のことは知っていたが、その現代的意味や思想については、私もあまりよく知らなかったのだが、今回、「すばる」八月号で、杉田俊介が、そのものズバリの「ロスジェネ芸術論」なるものを連載開始したので、かなり詳しく知る羽目になった。ロスジェネ、つまり就職も定職もなく、派遣社員やフリーター、あるいはニートのままに、将来の生活設計にも展望の開けない「失われた世代」の問題である。ところで、ロスジェネとは別に、もう一方には、昭和初期のプロレタリア文学の名作、小林多喜二の『蟹工船』が、その最初の火付け役は誰であれ、ともかくも爆発的に売れているらしいという情報もあり、しかも新聞や雑誌にも『蟹工船』の解説や分析が、吉本隆明まで登場して(「蟹工船と貧困社会」文芸春秋八月号)、一種の流行のように氾濫している。あるいはまた、他方には、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳が驚異的なペースで売れ続けているというドストエフスキー・ブームもある。これらの現象が、それぞれ密接につながっていることは言うまでもないだろうが、そこには何があるのだろうか。新聞用語を使わせてもらうならば、おそらく格差社会ワーキングプア派遣社員、アキバ事件……ということになるのだろうが、やはり根本には、小泉改革新自由主義、あるいはグローバリゼーションなどという言葉が象徴するように、現代的な経済的な不況がもたらした新しい貧困問題と言うべき社会問題であるのだろうが、しかし、「ロスジェネ芸術論」というタイトルが示すように、これら一連の問題が、今や、単なる社会問題、経済問題、あるいは政治問題としてだけではなく、文学や芸術、あるいは思想の領域にまで入り込んで来たということが、大きいのではないか。それは、小泉改革、グローバリゼーション云々……の問題を越えて、この世代の思想問題に、そして芸術的、文学的想像力の問題にまで進化・深化しつつあるということだろう。言い換えれば、これは、小泉改革というような新自由主義経済改革に対置すべきもう一つの経済政策の模索や変更などでは、もはやこの時代の病巣や危機を克服することは出来ないというところまで事態は深刻化しているということだ。そこで、経済や政治に代わって、文学や芸術が登場するというわけだろう。
杉田は、「ロスジェネ芸術論」を、赤木智弘の「丸山真男をひっばたきたい。31歳、フリーター。希望は戦争。……」(「論座論座 2007年1月号)というエッセイの紹介と分析から始めているが、このロスジェネ問題の本質が、単なる経済問題ではなく、思想問題や芸術問題だとすれば、その原点に、赤木智弘のこのエッセイがあるということは間違いない。ところで、赤木智弘雨宮処凛杉田俊介の三人は、偶然にも、同年生まれらしく、それだからというわけでもないだろうが、先日、トークライブを開いたらしい。そこで、杉田俊介の論や赤木智弘のエッセイに触れながら、ロスジェネ問題とは何かを簡単に見てみよう。
■ 「赤木智弘という現象」とは何か?
杉田俊介は、こう書いている。
戦後民主主義は国民を総中流化させたと言われる。しかし高度成長期の恩恵を受けてきた既得権世代と、就職氷河期世代(ロストジェネレーション、 七0年代から八0年代初頭生まれ)の若者の間には、大きな経済格差が生じている。赤木はそう言う。しかも経済弱者の存在は、の国では今もまともに認識されず、なかつたことにされている。従来の左の人も信用できない。口では「若者を救え」「貧困問題は深刻」などときれいごとをいうが、自分達の既得権を手放さないからだ。≫
杉田俊介が解説するこの赤木智弘の主張に、私は、全面的には賛成できかねるが、たとえば、経済格差の原因としての「既得権」という言葉、とりわけ「高度成長期の恩恵を受けてきた既得権世代」という言葉の使い方に、すでに小泉改革のメディア戦略に騙され、小泉改革を熱狂的に歓迎し、問題を世代間対立と勘違いした若者達の存在が投影していると言っていいが、彼等が直面することになった就職難と貧困問題の根本原因が、まさしく小泉改革、ないしはグローバリゼーションの名の下に推し進められてきた新自由主義経済政策だということが、赤木智弘にはわかっていないからだが、しかしおそらくそんなことは、今ではたいして重要なことではない。やはり重要なことは、次のような主張だろう。
≪自分は長い間、まじめに働いてきた。いろいろなものを諦めてきた。にもかかわらず、現在のフリーター生活の無限ループから抜け出せないままだ。これは自己責任なのか。国民全体が幸福になる平等をもう望めないというならば、自分は「国民全員が苦しむ平等を」望むしかない。――結論からいえば、今の自分の希望は、平和にも革命にもなく、戦争にしかない。戦争でも起こらない限り、戦後世代の磐石の既得権が破壊されることはありえないからだ。破壊のあとに訪れる社会の「過剰流動性」は、望ましいものである。≫
赤木は、国民全員が平等に苦しむ「平等社会」として、戦争を望むというわけだが、私は、「論座」誌上で展開されたらしい、この赤木の主張に理論的には反対しない。理論的には充分にありうる理論であり、主張だからである。しかし、赤木の主張は「賛否両論を招き、大きな議論の渦に人々を巻き込んだ」ということだが、私は、「賛否両論を招き、大きな議論の渦に人々を巻き込んだ」ということそのことを高く評価したい。この極端に過激な主張は、一種の思考実験であり、言うならば、ドストエフスキーの『罪と罰』や『悪霊』の世界にも通じる思考上のラディカリズムだからである。そこに文学や芸術につながる何かがあることは間違いないが、はたしてそれが、具体的な文学作品に結実するかどうかは疑問である。しかし、綿矢りさ金原ひとみも、この世代に含めれば、情況は一変するだろう。
雨宮処凛プレカリアート運動。
さて次に、雨宮処凛森達也の対談「KYでも生きられる社会に」(「群像」)を見てみよう。ここにも現代的な貧困の問題が登場する。最近、しばしば新聞雑誌などでお目にかかる言葉に「プレカリアート」という言葉あるが、この言葉もロスジェネ問題とも無縁ではなく、またこの言葉を使って社会運動的なものを目指して活動しているのが、ロスジェネ問題と同じく作家の雨宮処凛であることからもわかるように、現代社会の貧困問題の重要概念である「負け組」の雇用の「不安定」という問題を積極的に取り上げているが、ここでも問題は、単なる経済問題、政治問題としてではなく、思想問題、文学・芸術問題として取り上げられているが故に、注目される価値があると言わなければならない。では、プレカリアートとは何か。まずプレカリアートという言葉の意味だが、イタリア語が起源らしく、「不安定」を意味するprecarioに由来し、したがってプレカリアート(precariato)とは、世界的に吹き荒れる新自由主義経済下の雇用の不安定を強いられている人々、つまり非正規雇用者、要するにパートタイマー、アルバイト、フリーター、派遣労働者契約社員、委託労働者、失業者、ニート等を包括する言葉ある。つまり、不安定を意味するprecario(プレカリオ)と従来の Proletariato(プロレタリアート)を組み合わせた言葉で、最初はイタリアでの落書きから始まり、現代的な貧困を表す言葉として世界的に普及しつつある言葉らしい。
したがって、具体的にプレカリアートとは何かと言うと、ここでも、非正規社員としての派遣社員の犯罪として注目されたアキバ事件が連想されるが、雨宮処凛は、この対談で、犯人の加藤某の生活について、こう言っている。
≪文学なんですよ。ものすごくリアルな。今の若者の孤独と絶望と、それでも他者を求める狂いそうな切実感がリアルに描かれすぎて怖いぐらいです。それで彼は、借り上げアパートの部屋が広すぎると書いている。たぶん派遣社員の借り上げアパートって六畳にキッチンぐらいだと思うんですけど、部屋の三分の二は使ってない、一人だったら三畳で充分とか書く。六畳という部屋の「広さ」に淋しさが際立つんでしょうね。とにかく胸を打つんです。彼の孤独の質量には圧倒されました。≫
犯人加藤某については、「甘ったれるな」「非正規社員であろうと働く場所があるだけでマシじゃないか」というような意見もあり、この事件の解釈や評価は、それほど単純にはいかないだろうが、しかし、やはり多くの若者が密かに犯人に共感しているところを見ると、何かが、そこにあることは確かなように見える。犯罪は時代を映す鏡である。文学者たちが、しばしば犯罪者の深層心理に共感し、それを小説化することはよくあることで、別に目新しいことではないが、言い換えれば、犯人の孤独は、遠くさかのぼれば、小泉改革やグローバリゼーションの問題に行き着くだろうが、もはや、そういう問題を語っている時代は過ぎたように見える。その意味で、雨宮処凛のアキバ事件の分析は、やはり問題の本質の一端に鋭く迫っているのではないか。
とこめろで、「ドストエフスキーの『白痴』について」(「群像」)という長編のドストエフスキー論の続編とも言うべき評論を、山城むつみが書いているが、これも多分、ロスジェネやプレカリアートという問題とも密接に関係していると思われるが、しかし、赤木智弘雨宮処凛の軽快だが、過激な自己主張を展開する評論に較べると、やや教養主義的で、切迫感に欠けているように見える。やはり世代の差は歴然としていると言うべきか。