■西村賢太『けがれなき酒のへど』は文句なく今月一番の傑作だ。

「月刊・文芸時評」≪「月刊日本」12月号掲載≫      

■飯尾憲士と水上勉・・・・・・どっちがホンモノの作家か? 
 先月に続いて死亡記事関連で恐縮だが、飯尾憲士という作家が今夏、亡くなったらしい。「らしい」というのは私はこの作家についてこれまでその実像をあまり知らなかったからである。「すばる」新人賞受賞作家だということや、小説作品としては特攻隊について書いた『開聞岳』や終戦直後の軍人の自決を描いた『自決』ぐらいしか記憶にない。最近はもっぱら戦争関係のものばかり書いていたから、売れなくて戦争モノに転向したのかと思っていた。いずれにしろ、小説は発表されるたびにしばしば読んでいるが、ほとんど記憶していない。ということは、私にとっては、いてもいなくてもいいような作家だった、ということになる。
 しかし、川村湊が「すばる」11月号に書いた追悼的なエッセイ「柔らかい腹ーー飯尾憲士論」を読んでいるうちに、この飯尾憲士というあまり有名ではない地味な作家の生き方に触発されて、あらためて「作家とは何か」「小説とは何か」「文学とは何か」という根源的、且つ本質的な問題について考えさせられた。飯尾憲士という作家の生き方の中に、「ここにホンモノの作家がいる」と思わせるような何かがあったからだ。この「何か」が何であるかと問うことは重要だろう。そこに文学や小説の本質が隠されていると言っていい。そしてまた、昨今の「文学不振」、「文壇の地盤沈下」、「小説の終わり」・・・・・・というような議論ともこの問題は直結している。要するに、昨今の文学不振の根本原因も実はここにあるのだ。
 川村は、飯尾憲士の異常な「デビューの遅さ」から書き始めている。
  ≪飯尾憲士は、「海の向うの血」によって一九七八,年度のすばる文学賞(佳作)を受賞し、いわゆる文壇デビューした。一九二六年生まれ、満五十二歳のデビューは早くないどころか、きわめて遅いスタートである。(中略)このデビューの遅さは格別のものだ。それまで小説に手を染めたことがない、あるいは職業的な作家になる気などまったくなかったのなら話も理解しやすいが、(中略)一九六〇年代に交通事故で瀕死の重傷を負ったのを「契機に飯尾はまもなく退社し、思い切って文章一本の生活に入」った。しかし、これは本格的な”売れない小説家”の道、すなわち「髪結い亭主」として、婦人や家族に負担を背負わせながら孤軍奮闘する道を選んだ時のことであり、彼はそれ以前に、すでに”修行ー雌伏の時代”を長く経験していた。≫
 こういう日常的な価値や生活を犠牲にした上で文学に打ち込んだという経歴を読むと、多くの人が、飯尾の中に、一時代前の古色蒼然とした典型的な破滅型の文学青年の姿を推測するだろう。恐らくその推測は間違っていない。そして、ほとんどの人は、昨今はそんなものは流行らない、と言いつつこういう生き方をひたすら軽蔑し嘲笑するだけだろう。しかしその時、人は文学から排除され、健全だが不毛な日常的制度の中に閉じこめられるのだということに気付いているだろうか。健全な小市民的秩序に安住する者は、いわば、文学や芸術がもっとも必要とする外部=存在とのつながりを絶たれるのだ。昨今の作家たちは、一般庶民レベルの健全な価値観に閉じこめられ、ごく少数の例外を除いて、外部=存在について描けなくなっている。そこに文学の沈滞の原因があることは言うまでもない。
 さて、たまたま同じ雑誌に、飯尾と同じ頃に亡くなった水上勉に対する追悼文が多数掲載されている。しかし水上にはまことに申し訳ないが、私はこの追悼特集を飯尾憲士と比べたくなった。言うまでもなく水上は、一時的には苦労したかも知れないが、作家としてはやはり大成功した作家の部類に入るだろう。水上に比べると飯尾憲士はほとんど無名作家に近い。しかし私は、水上よりも飯尾の方に文学的関心を持つ。たしかに水上の小説はうまいかも知れない。しかし水上の要領のいい生き方が、それぞれの小説にも悪い意味で反映している。たくさんの追悼文を読みながらそう考えた。
■ 飯尾憲士という作家の生き方
 では、飯尾憲士とはどういう作家だったのだろうか。
 飯尾憲士は朝鮮人の父と日本人の母との間に混血児として生まれた。しかし父親は朝鮮人であることを恥じてそれを語ろうとはしなかった。長男であるにもかかわらず、十九歳で朝鮮という母国を捨てて日本に渡った父。朝鮮人であることを隠したまま、日本で一家をつくり、家族を養おうとしていた父。その父親は、朝鮮の家族や血族と没交渉のまま、日本で静かに五十四歳で死ぬ。
 飯尾憲士の五十二歳のデビュー作『海の向うの血』は、この父親のことを書いた小説である。この小説によると、飯尾は、海軍兵学校を受験する時まで、父親が朝鮮人であることを知らなかった。受験の時、はじめて父親が朝鮮人であるという「戸籍の秘密」を知る。そしておそらくそれが理由で受験には失敗する。飯尾は、それ以後、小説を書きつづけていたにもかかわらず、この問題を書くことはなかった。また友人たちの話によると、飯尾は、自分の父親が朝鮮人であることを決して語らなかったと言う。
 飯尾は、五十二歳になって初めて「父親の秘密」について書いた。それが飯尾憲士という作家のデビュー作となったというわけである。飯尾憲士の長い修行・雌伏の時代とは、この父親の問題を書くための準備期間だったように思われる。おそらく五十二歳になるまで、この問題をどう書いていいか、その書き方が分からなかったのであろう。言い換えれば、飯尾憲士もまだ完全に日常的な生活や価値観を捨てることが、つまり一族の恥を晒す確悟が出来ていなかったということであろう。
 飯尾は、≪永年、亡父のことを書かなければと思っていたが、筆の貧しさに気後れして、ふんぎりがつかなかった≫と書いている。家庭や生活を犠牲にしてまでも文学に打ち込むという生き方を早くから実践しようとしていた飯尾憲士も、父親のことは書けなかったのである。そこには、川村が言うように「親日派」だった父親の生き方を必ずしも息子の飯尾憲士が受け入れられなかったということもあるかもしれない。父親のことを書くとすれば父親を批判し、冒涜しなければならなくなるからだ。しかし、より根本的な問題は、飯尾に小説家としての不退転の覚悟がまだ出来ていなかったということであるように思われる。おそらく父親のことを書きたいと思いながらも、書いた後のことを考えて躊躇していたのだろう。飯尾が五十二歳まで、雌伏しなければならなかった理由もそこにある。要するに、父親の秘密を書かない限り、飯尾憲士という小説家は存在不可能だったのである。飯尾に、小説家という生き方を選択させたものも、また五十二歳までの修行―雌伏の時代を強制したのも、実は父親のことを書かなければならないという無意識の願望が強烈にあったからだろう。
 言うまでもなく、私生活を犠牲にしてまでも小説に打ち込む「殉教精神」の持ち主だけが、外部=存在を掴むことが出来る。健全な市民生活を送りながら一流の作家、芸術家を目指すというのがそもそも自己矛盾である。作家に犠牲を要求しないような思想も文学もないのである。作家として成功して社会的名士になり、豪邸に住み、誰からも尊敬されるような作家はしばしば文学や芸術の女神から見放されるものだ。われわれが、未だに北村透谷、梶井基次郎中原中也太宰治三島由紀夫・・・・・・というような夭折したり自殺したりした不幸な作家にこだわるのはそこに理由がある。彼らは小市民的制度の外側に出た作家である。彼らの不幸な生き方を通して、われわれは何かを見ることが出来る。
 実は、飯尾憲士は、「すばる」10月号に「逝く」という短編小説を発表している。小品とも言うべき本当の短編小説だが、印象に残る名品だった。「再起不能結核患者の青年が病院から脱走し、恋人と心中する話」だが、鬼毛迫る力作だった。川村の追悼文を読んで、この短編「逝く」が、飯尾憲士の遺作だったということを初めて知った。なるほどそうだったのかと今にして思う。
西村賢太『けがれなき酒のへど』は傑作だ!!!!!!
 「2004年下半期同人雑誌優秀作」として「文学界」に転載されている西村賢太『けがれなき酒のへど』は、文句なく今月一番の傑作だ。
 「同人雑誌推薦作」ということだろうか、活字も他のページよりも一段小さい活字で印刷されているが、小説作品としてはひときわ大きく光り輝いている。久々に小説を読んだという実感を味わった。この小説は徹底的にダメな男の、惨憺たるミジメな話である。デリヘルやソープランドの女に入れあげたあげく、女に100万円近い大金を騙し取られる話である。このダメさ、このミジメさがたまらないと私は思う。ここまでダメさ、ミジメさを執拗に書きうる能力はもう凡庸なものではない。
 西村賢太は、そのプロフィールを見ると、詳しくはわからないが、中卒で古書店関係の仕事をしている人らしい。そして「藤沢清造全集」(全五巻・別巻二、朝日書林)を個人編集していると言う。藤沢清造と言ってもほとんどの人が知らないだろう。私も、この「藤沢清造全集」の広告を見るまでは知らなかった。
 この小説は、その藤沢清造という作家に入れ込んで、「藤沢の没後弟子」を自認した上に、毎月、一人で命日に法事を執り行い、しかも独力で彼の個人全集まで出版しようとしいる男の話である。ということはこの小説の主人公は、西村賢太本人とほぼ同一人物と考えていいように書かれている。むろん、これが私小説かどうかを議論するつもりはない。問題は、作家や作者の生き方と作品そのものが深くつながっているということだ。そして飯尾憲士とも関連するが、日常的な価値や生活との距離の取り方である。
 藤沢清造という反社会的、反世俗的な作家との出会いについて、こう書いている。
 ≪私がこの能登七尾の寺にある、藤沢清造の墓を初めて訪れたのは三年前の春だった。大正中期にあらわれたその処女長編『根津権現裏』を、今の比ではなかったひどい四面楚歌の状況下で苦し紛れに読み、余りの共感からこの作家の他の著作むの掲載誌を古書展なぞで探していくうち、すっかり藤沢清造という作家の虜になった。生きてはくどいほどの律儀さと愚直なまでの正義感からなる行状で恥を晒し、死ぬ際にもなお恥の晒しおさめとでも云わんばかりな行路病者さながらの狂凍死と云う悲喜劇をやってのけたその人のことが、どうしても脳中から離れなくなっていった。すがりつくような思いでここを目指し。墓前にぬかずいたのである。以来、私はこの作家の、可能な限りを網羅した全集と評伝のム完成と刊行を、自分の最後の目標とする一方、毎月二十九日の命日には欠かさず菩提寺へ行くようになっていた。≫
 ここに、この小説の「底の深さ」がよく描かれている。現代の文学が失ったものは「貧乏」や「不幸」ではなく、こういう存在の奥底へ降りていこうとする過激な文学精神である。