■浅田彰は、柄谷行人の「空洞化」を賛美しているだけだ。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」     


 ■小笠原賢二という生き方。
 小笠原賢二という文芸評論家が亡くなった。58歳だった。
 とは言っても、小笠原賢二という文芸評論家がどれだけの社会的知名度があり、どれだけの文学的評価を受けていたのか……、簡単にわかることではない。それは小笠原の批評の対象が小説でなく主として短歌だったという事と無縁ではない。つまり小笠原賢二は、文藝評論家と言っても、どちらかと言えば、地味でマイナーな短歌専門の文芸評論家だったのだ。この事実は予想以上に重大な意味を孕んでいる。
 小笠原以前に短歌専門の批評家はいなかった。小笠原賢二は、我が国で最初の短歌専門の批評家だった。そしておそらくこれからも小笠原のような短歌専門の批評家は出てこないだろう。そもそも短歌の批評をするぐらいなら、すぐに短歌そのものを作ろうとするだろう。短歌を作らない短歌批評家という存在そのものが自己矛盾なのである。つまり短歌批評家という職業がそれ自体として事実上、存立不可能な職業なのである。その存立不可能な職業に敢えて挑戦したところに小笠原賢二の存在意義はあった。ちなみに小笠原は、北海道の増毛の生まれで、集団就職組の少年だったそうである。おそらく苦学しながら大学を卒業し、大学院まで進んだのだろう。そういう人が、なぜ、敢えて、短歌評論家という困難な職業を選択しなければならなかったのか?
 近代批評の確立者として評価される小林秀雄は言うまでもなく、近代批評家たちが取り上げてきたのは主に小説であり、詩であった。たしかに正岡子規以来、短歌や俳句の世界に批評がなかったわけではない。むしろ芸術論としては小説の批評よりはるかに純粋理論的で過激であったといっていいかもしれない。正岡子規に始まる「写生」論がその典型であろう。その写生論は、私小説的なリアリズム理論や文芸評論家の文学論をはるかに超えていた。しかしそこには専門の批評家はいなかった。誤解を恐れずに言えば、歌人俳人が片手間に取り組むのが短歌批評であり、俳句批評であった。小林秀雄の登場以前の小説の世界と同じである。
 江藤淳は、「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということは何を意味するであろうろうか」と問うた後で、「小林秀雄以前に自覚的な批評家はいなかった……」と言っているが、それはまさしく小笠原賢二にも言えることだろう。つまり「小笠原以前に自覚的な短歌批評家はいなかった」と言っていい。江藤淳は、「自覚的な批評家」とは、「批評という行為がその彼自身の存在の問題として意識されている……」ということだと言っている。

■ 「批評家になる」ということは何を意味するのか?
 小林秀雄自身が、このことについて的確にこう言っている。
  ≪彼(注・ボードレール)の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。≫(『様々なる意匠』)
 つまり小林秀雄の批評の核心は、単なる理論や方法ではなく、批評家としての生き方そのものにあったのだ。批評家として生きるとはどういうことか。それを問いつめたのが小林秀雄の批評だった。文芸評論というものの役割を、小説の解釈や解説、あるいは文学史への位置づけ……と勘違いしている人は未だに少なくない。したがって「便利屋」としてそういう批評家が文芸誌等でもしばしば優遇され、もてはやされる。しかしそこには批評はない。文芸誌における批評の位置と批評家の役割がそれを端的に証明している。そこには便利屋として適当に利用され、やがて使い捨てにされる「奴隷批評家」がいるだけだ。
 しかし、小林秀雄が実践して見せたものは、作家や文芸誌編集者の顔を伺いながら、右顧左眄するしか能のない「奴隷的批評家」としてではなく、詩人や作家と同じように自立した批評家として生きるという事だった。
 小笠原は、「短歌滅亡論」という過激な短歌論で短歌専門の批評家として登場して、そして歌壇の顰蹙を買いながらも妥協することなく、短歌批評というジャンルを確立すると同時に、志半ばで病に倒れたのである。小笠原は不可能なことに挑戦し、そしてその挑戦の挙げ句に死に直面せざるをえなかった。まさしく彼は短歌批評を生きたのである。
 言い換えれば、短歌という世界に批評というものちを導入した最初の批評家ということになる。お通夜の晩に、小笠原賢二の友人で、葬式の僧侶を勤めた福島泰樹が、「死顔は作品である。」と言ったが、まさしくそうであろう。小笠原賢二にとって「死顔」こそが作品であった。それが、「短歌批評家という前人未踏の世界を生きた証」である。
 小笠原は、短歌批評を始めたキッカケについてこう書いている。
  ≪この数年、短歌を論じる機会が急に多くなった。批判的な内容になりがちなため、歌壇内にはよそ者が妙なことを言い出したと見る向きもあるようだが、もちろん気まぐれで始めたわけではないし、またそんなことができる筈もない。私の短歌好きを知る編集者のすすめがきっかけになって加速度がついたのである。≫
 また「恒常的短歌滅亡論」を主張し続けた小笠原は、こう言っている。
  ≪言い換えれば、新たな短歌滅亡論の時代に入ったのである。】(いずれも『拡張される視野ー現代短歌の可能性』)
 小笠原賢二がどういう批評家だったかは、もう言わなくてもわかるだろう。

■秋山駿を読まない「柄谷行人フアン」へ
 小笠原賢二とは逆の方向に舵をきっているのが柄谷行人である。『定本柄谷行人集』全五巻完結を記念して、当事者の柄谷行人を囲んで、浅田彰、大沢真幸、岡崎乾二郎らが座談会をおこなっているが、私はこの陽気な座談会に強い違和感を感じた。(「文学界」11月号『討議 絶えざる移動としての批評』)
 最近、柄谷行人の関心はもっはら哲学や経済学の方に集中している。この座談会の出席者の顔ぶれがそれを象徴している。ここには柄谷以外に文芸評論家は一人もいない。中心は経済学や社会学の研究者たちである。しかし、にもかかわらず、柄谷行人がいまだにもっとも本質的な、強力な文芸評論家であることも間違いない。マルクス論から始まりソシュール論やウイトゲンシュタイン論、カント論へと続く柄谷行人の「哲学的」「思想的」な仕事は、深く現代文学や現代批評とも結びついている。柄谷行人以後の若手文芸評論家たちが、文学論や小説の技法等について具体的、実践的に語っているにもかかわらず、その影響力ははるかに小さい。柄谷行人が未だにスリリングな現役批評家たり得ているという証拠だろう。
 しかし、私はこの座談会に深い失望を禁じ得ない。ここには柄谷行人本来の文学的、批評的な問題がない。ここには空洞化した思考の産物としての理論や概念しかない。それはかつて柄谷行人自身が強く批判していた筈のものである。柄谷行人は概念化・空洞化することによって人気者になったのである。概念や思想は誰でも共有できるものだからだ。
 たとえば、この座談会の写真で全員が一様に歯をを見せて無邪気に笑っている。なぜ笑う必要があるのか、私にはわからない。この「余裕」は何を意味しているのか。これは第一線から降りた者たちの「余裕」であり「笑い」ではないのか。
 この座談会に出席している人たちは、おそらく「文芸」そのものにさして関心はない。それはたとえば大沢真幸という社会学者の次のような発言に端的にあらわれている。
  ≪僕は京都大学で学部学生むけの、特に一回生、二回生が多い、読書会のようなゼミを受け持っているんです。今年はそのゼミで柄谷さんの『定本』を読んでいます。自分自身、学生のときに読んで、たいへん衝撃を受けたのですから、たぶん二十歳前後の学生たちが読むのにいいんじゃないかと思って。最初に『隠喩としての建築』、それから『トランスクリティーク』を読んだ。≫
 私は、この部分を読んで、大沢という社会学者が文学や批評と無縁な人間であることを直感的に了解した。そもそも文学や批評の世界では、年齢の差はそれほど重要ではない。むしろ関係ないと言っていい。前回の芥川賞受賞者の綿矢りさ金原ひとみの例を持ち出すまでもなく、あるいは二十歳そこそこで『夏目漱石』論を書き上げた江藤淳を上げるまでもなく、いつでもプロになれるのが文学や批評というものの恐ろしいところだ。二十歳で社会学者や経済学者にはなれないかもしれないが、作家や批評家には二十歳でなれるのである。この素朴な社会学者・大沢真幸には、作家や批評家という危険な存在に対する「畏れ」というものがまったく感じられない。

浅田彰は、柄谷行人の「空洞化」を賛美しているだけだ。
 浅田の発言にも違和感を感じた。たとえば、こう言っている。
  ≪柄谷さんの著作をリアルタイムで読んできた者としては、柄谷さんは理論家ではなく批評家であり、テクストを書き捨てながらどんどん次へ次へと動いていく……≫
 浅田は、実際の柄谷行人とまったく反対のことを言っている。柄谷行人は、批評家から理論家に転身し、人畜無害な思想家なったからこそ多くの読者(フアン)を獲得し、浅田彰のような崇拝者を周辺に集めることが出来るようになったのである。
 ところで、柄谷行人の本質は哲学でも経済学でもなく、あくまでも文学や批評である。柄谷行人自身も、しばしば、自分の仕事は「文芸批評」である、と言っている。
 柄谷行人は、初期の作品を集めた『柄谷行人初期評論集』『畏怖する人間』『意味という病』という評論集の頃は、秋山駿や江藤淳、あるいは小林秀雄を高く評価し、しかも彼らからかなり深く影響を受けていた。柄谷自身も認めているように柄谷行人という批評家の本質はそこにあった。かつて柄谷行人も思想や哲学を批判する事こそ批評であるという立場にいた。たとえば柄谷行人の「埴谷雄高批判」がそれである。
 しかし、柄谷行人は、ある時期から、文壇や論壇の主流派である左翼陣営や思想派に妥協し、秋山駿や江藤淳について語らなくなった。
 最近の柄谷行人の読者やフアンは、たとえば秋山駿を読んでいないはずだ。秋山駿だけではない。おそらく柄谷行人という批評家にとって重要な先行者たちである江藤淳小林秀雄もろくに読んでいない。読んでいないというよりろくに知らないはずだ。それはおそらく彼らの「資質」の問題である。彼等は、柄谷行人の「外部性」「他者性」「自己言及」「価値形態論」「協同組合」といった、柄谷行人が次々に提出した理論や概念を愛する人たちであって、柄谷行人という批評家の生き方にかかわる実存を愛する人たちではない。
 浅田は、柄谷行人を「リアルタイムで読んできた」と言うが、それは柄谷行人の思考が、文学作品から遠ざかり、「理論化」「概念化」「空洞化」して以後のことではないのか。浅田が愛しているのは柄谷行人の「形骸」である。