■「群像」編集長交代劇について 。■文学好きの精神科医に文学はわ

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」     

■「群像」編集長交代劇について

 伝統的な「創作合評」欄や匿名コラム「侃侃諤諤」欄を廃止し、装丁も一新するなど、「群像」の大幅な改革と刷新を目指していた編集長が、志半ばで突然、解任され交代させられたらしい。わずか二年の編集長であったことになるが、異例の交代劇であることは間違いない。一部には「更迭」という噂もあるが、私は詳細については知らない。ちなみに一度は廃止した「創作合評」や「侃侃諤諤」を、無理矢理に復活させられた頃からその兆候はあったが、それが現実になってみるといろいろ考えさせられる。
 では、この編集長交代劇の背後には何があったのか。その編集方針や人間関係に問題があったとしても、編集長がわずか二年で交代させられるという現実は、現代の文芸や文芸誌の置かれている困難な状況を暗示している。伝え聞くところでは、「群像」の新編集長に就任した人は、またもエンターティメント関係からの移動らしい。とすれば 会社側が何を目指しているかは明らかだろう。やはりこの「前編集長更迭」と「新編集長の登場」の意味するものは、伝統的な純文学系文芸誌の復活ではなく、結局のところ、「売れない純文学」から「売れる文芸誌」路線への転換ということなのだろう。 すでに何回も失敗した「売り上げ文学」路線を性懲りもなく再び選択したと言うことだ。 
最近の文芸誌は、いずれも編集という場所と空間に大きな問題点を抱えている。文芸誌は新人賞取りの機能しかはたしていない。「文学とは何か」「文学は何をなすべきか」とかいうような根本的なテーマで議論・論争する場所としての機能を失い、新人賞目的の「公募ガイド雑誌」化しつつある。その証拠に、対談やインタビューもほとんどが、自社出版物の宣伝とプロパガンダに終始している。そこで排除されるのは批評家であり、逆に歓迎されるのは書評家やコラムニストである。「批評のコラム化」である。
 そうなった大きな原因は、編集者や編集長にじっくりと腰を落ち着けて編集という長期的な仕事に取り組む時間と余裕を与えようとしない出版社のシステムにあると言うべきだろう。作家や批評家を育てる前に、まず文学や批評にそれなりの見識を持った編集者を育てることが必要だろう。たとえば、私の知る限りで言えば、寺田博(「文藝」「海燕」)、坂本忠雄(「新潮」)らに代表されるような「生涯一文芸編集者」の育成である。

■文学好きの精神科医に文学はわかるか。

 最近、私が疑問に思っていることの一つは、文芸誌にしばしば登場する文学好きの精神科医という存在である。別に精神科医一般に批判があるわけではないが、精神科医がそれぞれ作家や批評家としてではなく、精神科医という肩書きのままに文学について安易に語ることと、それを歓迎しているように見える編集者や出版社についてである。
 なぜ、精神科医は文学について不用意に語ってしまうのか。文学なんて精神科医という科学者にとっては「やさしい!」とでも考えているのだろうか。精神科医が、文学を語るとき、何か大きな勘違いを犯しているように見えるのは、なぜか。それは、「文学がわかる!」という錯覚に無自覚だからだ。作家や批評家は決してそんな不用意な語り方はしない。彼らはその道のプロであるにもかかわらず謙虚であり、文学への畏怖というものを持っている。たとえば、今回で芥川賞選考委員を辞退するという古井由吉の発言(「文学界」「この二十年の芥川賞」等)は、新しい文学や若い作家に対してもあくまでも謙虚である。しかし、精神科医たちの文学論にはその謙虚さ、つまり文学への畏怖がない。
 たとえば、今月は、春日武彦という精神科医が、「文学界」の「文学のなかの危機」という特集で、「人はなぜ文学を求めるのか」というタイトルのインタビューを受けている。そこで春日はこんな発言をしている。
 《藤枝静男がいちばん好きですね。身につまされる。どういうところかというと、あの人は私小説を書きたいというのが大前提にあった。ところが彼は私小説を書くにしては境遇が結構幸せなんですよね。だから書くことが基本的にはあまりない。貧乏話もいまいち迫力ないし、病気の話もいまひとつ。といって眼科医だから患者の悲惨な話もあまりなかったりする。書きたいけれど、身の回りにあまり書くことがないというところからはじめて、そこであきらめるかというと、どんどん変な方向というかある意味で奇形な方向に行った。『空気頭』とかね。あのへんのずぶずぶといく感じがすごくいい。今の世の中なんて、書くに値するような不幸なんてそんなにない。プチ不幸にはあふれていても。そういう意味で、ああいう変なかたちに行っちゃった藤枝静男はいまこそ評価されるべきです。》
 私がここで、春日武彦なる精神科医の文学論を長々と引用するのは、その発言が文学的に面白いからでも、何らかの文学的な問題をはらんでいるからでもない。むしろ、この程度の素人的な文学論を文学の専門家たちが書き、読むはずの文芸誌で、恥ずかしげもなく堂々と披露するその鈍感な心理構造が面白いからである。実は、この鈍感な心理は、春日武彦という精神科医を呼んできて、文壇の大御所を相手にするかのように、うやうやしくインタビューする文芸誌の編集者たちも共有する心理である。私は、おそらく現代文学、現代小説の衰弱の根本原因はここらあたりにあるのではないか、と思う。
 春日の、「今の世の中なんて、書くに値するような不幸なんてそんなにない。」というご意見も、いかにも現代文学に無知な素人的意見でまことに陳腐すぎる。そもそも貧乏や不幸がなければ文学は成立しないのか。そんなはずはない。科学者が、貧乏や不幸と何の関係もないように、天才的な作家も別に貧乏や不幸が原因で小説を書くわけではない。「貧乏や不幸のないところに文学はありえない。」という文学論こそ、素人が洗脳されやすい通俗的な観念論にすぎない。
 たとえば天才は、不幸や悲劇を発見し、創造する人である。それは文学者も科学者も同じである。たとえば、アインシュタインは、古典物理学の平和的秩序を破壊した人である。彼は、科学者として科学の世界に潜む悲劇と不幸を新たに発見したのである。小林秀雄は、近代文学の世界に批評を導入した人だが、それもまた近代文学的な平和的秩序を破壊したという歴史的意味を持っている。春日は勘違いしているが、不幸や悲劇は文学や小説の原因ではない。逆に文学が不幸や悲劇を新たに発見し創造するのだ。その発見された不幸や悲劇に接して読者は感動を味わうと同時に精神のカタルシスを実感するのだ。現代文学の不幸は、一見すると平和で幸福そうな現代生活の根底にあるはずのこの悲劇や不幸を、新たに発見し表現する才能を持つにいたっていないと言うところにあるのだ。
 春日は、物知りらしく、江戸川乱歩から保坂和志梅崎春生鮎川哲也泡坂妻夫都筑道夫、ジェイムス・エルロイ、スティーブン・キングティム・オブライエン佐野洋村上春樹浅田次郎小松左京…と、古今東西の作家の名前を次々と列挙して延々と解説と批評を加える。私も読んだことのない作家が少なくないが、しかしこういう浅薄な文学的雑学になんの意味があるのか。この程度の雑学的教養こそ、もっとも文学的創造と無縁な教養であり、知性ではないのか。文芸誌がこの手の文学好きの似非文化人に迎合するのは喜劇である。むしろ、こういう知ったかぶりのエセ文化人を軽蔑し、文芸誌から排除するようになった時こそ、文学や批評が活性化する時であろう。
 最後に、春日は自信たっぷりにこんなことまで発言している。
《重病人や引きこもりや自殺志願者やモテない奴や、フリーターやそういった連中の話はどんなに感動的に書かれていたとしても、もう沢山だなあ。》
 今更、言うまでもなく、春日のような文学音痴の厚顔無知なおしゃべりこそ、「もう沢山だなあ。」である。 

島尾敏雄について語るべきこと。

 「文学界」の特集には、島尾敏雄を論じた清水良典の「『「死の刺」日記』と『死の刺』」も掲載されているが、こちらの方はさすがに文芸評論家としての仕事を何年か積み重ねてきた人らしく、文学という本来の問題を的確に把握し、展開している。知ったかぶりの自慢話に堕落した春日武彦の発言とは雲泥の違いである。
 『死の刺』は、島尾敏雄本人と、精神病院に入院するほどまでに精神的に破綻したその妻ミホとの夫婦生活を詳細に描いた私小説である。清水は、最近刊行された『「死の刺」日記』という新しい資料を元に、島尾敏雄研究の定番として世評の高い奥野健男吉本隆明島尾敏雄論を、批判する。むろん、ここで問題なのは批判のレベルである。私が清水を評価するのは、ここで清水が文壇や論壇の権威に果敢に挑戦し立ち向かっているからである。
 島尾ミホには、ほとんどトレードマークのように染み付いたイメージがある、と清水は言う。その典型は奥野健男による次のような解釈である。
 《妻は古代人である。(中略)夫は故郷の島を守るために海の彼方ヤマトから渡って来た荒ぶる神であり、稀人である。それ故にユカリッチュの家に生まれ、老いた両親のもと珠のように可愛がられ、島人から唯ひとり「カナ」とまぶしく呼ばれ、ノロ信仰の島を治める巫女の血を引く、この誇り高い島の娘が、島人の心を代表して、ニライカナイの神、稀人の妻として仕えた。》
 清水は、奥野健男吉本隆明以来常識となっているこの種の「島尾ミホ・南島の古代人」説を、結婚前のミホが12歳から19歳まで10代のほとんどの期間を東京で教育を受け、島では女性教師として働く知的女性だったという事実を証拠に批判する。つまり「島尾敏雄・知性の人」と「ミホ・古代人」という二元論を否定し、ミホもまた都会的な知性の人であり、島尾文学の創作の協力者として、あるいは合作者としての役割を担っていたと解釈する。したがって、『死の刺』を、島尾敏雄の妻に対する懺悔と鎮魂の文学とする解釈は正確ではないと言う。そしてこう結論する。
 《20年以上も書き継がれた『死の刺』は、祈祷文と地続きの、祈りの文学なのである。》
無論、ここで重要なのは「夫婦が声を合わせて唱えつづけた…」という部分である。