■政治家は、なぜ、もっとも小さな問題でつまずくのか。

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山崎行太郎の「月刊・文芸時評」(「月刊日本」6月号)
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■政治家は、なぜ、もっとも小さな問題でつまずくのか。

福田康夫官房長官に続いて菅直人民主党代表も年金未納問題で辞職を余儀なくされた。おそらくこれで、長い間停滞していた政界のダイナミズム(健全な派閥抗争?)が一挙に回復されるだろう。
 それにしても、なぜ、福田や菅のような政治家までが、イラク問題や北朝鮮問題、あるいは経済失政や憲法改正問題のような「大きな問題」ではなく、年金未納というような「小さな問題」で失脚することになったのか。不可解に思う人がいるかもしれない。しかし不可解でもなんでもない。政治とはそういうものである。しかし政治ジャホナリズムや論壇はこれを忘れる。
 これは文壇と論壇の言説の「構造的差異」という問題にもかかわっている。文壇は小さな問題に固執するが論壇は大きな問題を強調する。そこに論壇的な言説に特有の落し穴がある。大きな問題こそ「真の問題を隠蔽する装置」に過ぎないのだ。
 たとえば福田官房長官の場合、政治的才能も政治的貫禄もないマイナー政治家であることは誰が見ても明々白々である(軽薄な歩き方とお得意の薄ら笑い!)にもかかわらず、何を勘違いしたのか政権の枢要ポストである「官房長官」の椅子に長々と居坐り続け、挙句の果ては外務大臣(総理大臣?)気取りで政権を私物化、政治的、経済的な停滞と混迷を深めてきた。それを許したのは我々国民であり、論壇ジャーナリズムである。原因は何か。ジャーナリズムや大衆が、大きな問題(物語)に目を奪われて「小さな問題(物語)」に固執してこなかったからである。
 菅直人の場合も同様だろう。女性スキャンダルや長男立候補問題で明らかに政治的には死んでいるにもかかわらず、「大きな物語」(自衛隊イラク派兵や経済政策……)を語りつづけることによってそれを隠蔽し、延命し続けてきた。これは、現代の政治的、経済的な国家的停滞の元凶である小泉純一郎総理の場合にも当て嵌まる。論壇ジャーナリズムも大衆も、その口先から次々と繰り出される「大きな物語」に幻惑されていまだに小泉政権を支持し続けている。小泉純一郎の家庭生活や三男問題、あるいはオペラ趣味のような些細な問題をもっと追究すべきだろう。そこに政治家・小泉純一郎の存在本質が隠されていることは自明なのだ。憲法改正構造改革北朝鮮問題というような大きな物語に幻惑されてはならない。
 しかし論壇ジャーナリズムにはそれが出来ない。たとえば、今回のイラク人質問題で被害者とその家族の言動の中に、小さいが本質的な欺瞞とペテンを嗅ぎつけ、厳しいバッシングを浴びせたのもマスコミや論壇ではなく、「人道支援」や「人命尊重」という大きな問題とは無縁な一般大衆とネット・ジャーナリズムだった。

■やはり新人賞受賞作はおもしろい・…モブ・ノリオ『介護入門』を読む

 「神は細部に宿り給う」と言うが、常に細部に固執し、そこから問題の本質に迫るのが文学と、論壇からは軽蔑されているスキャンダル・ジャーナリズムである。文学の生命線は、誰もが無視し、見ようともしない些細な問題(物語)を発見・着目し、延々と分析・描写を続けるところにある。一見、無意味な行為のように見えるが、結果的にはそれが国家や歴史をも動かす原動力になるのである。日本という「近代国民国家」を作り出したのも、実は有名無名の群小作家たちが創造した「言文一致」という近代的散文であった。文壇の言説や小説家の文章を侮るなかれ……とはそういうことである。
 さて、今年も新人賞の季節がやってきた。受賞作として「文学界」6月号にはモブ・ノリオの「介護入門」という奇怪な作品が、「群像」6月号にはこれまたかなり風変わりの十文字美香の「狐寝入夢虜」(きつねねいりゆめのとりこ)という作品が掲載されている。いずれも新人賞に相応しい型破りの小説である。おそらくこういう作品をベテランや中堅の既存作家に期待するのは無理だろう。
 モブ・ノリオの「介護入門」は、タイトルが示すように介護問題を扱っている。しかし別に現代日本が直面している社会問題としての介護問題を扱っているわけではない。介護を素材にし、介護の現場を詳細に描いているはが、問題は介護問題にはとどまらない。介護問題以上の何かを追究しているがゆえにこの小説は衝撃的だ。
 社会的には敗残者でありながら、大麻(マリファナ)を吸いつつ寝たきりの祖母の介護に熱中する若者、それが主人公だ。この若者は、会社社長の息子なのだが、一種の世捨人で、社会からは脱落した人間である。社会から脱落した人間が現世から脱落しつつある祖母を異常な情熱で介護している。脱落者であるが故に介護が可能なのだろうか。これは介護という極限的な状況からの詳細な報告である。この若者が実践している介護はなまやさしいものではない。具体的に言えば、キレイコド(論壇的な言説!)を並べ立てはするが、下の世話までしなければならない介護の現場からは逃走し続ける叔母たち(実の娘)がいる。彼らの自己欺瞞に対する怒りがこの小説を一種の反社会的な小説たらしめている。ここにこの小説の深さと謎がある。これは単なる介護小説ではなく、介護という現実を通して人間の実存と道徳を描いた小説と読むべきだろう。
 「俺は毎晩人を殺す気でばあちゃんの下の世話をするんだ、実ににこやかにな」と気楽に語る若者の脳裏には介護という社会問題などはない。愛する自分の祖母を一心不乱に介護するという現実があるだけだ。介護とは何か。老人問題とは何か。若者にとってそんなことは問題ではない。老人と若者は一種の仲間なのだ。
 軽いラップ調の文体で、半分ふざけながら、半分本気で介護に立ち向かう青年の背後から何か恐ろしいものが立ち昇ってくるのを見逃すわけにはいかない。誰が、これほど本気に介護という現実に対面し、また介護という実存的な状況を描いたか。
 こんな場面がある。

 ≪電動ベッドの上で下肢が固まったまま、おそらくは余生の大半を送るはずの祖母は、一日何回ぐらい死にたいと心から願うのだろうか? 日によっては、陽光が明るく差し込む朝から正午あたりまで、祖母はさめざめと泣き続ける。が、俺はそれを最悪だと思ったことないぜ。最悪は稀にそれを目撃したからと一緒に連れ泣き、はたまたその時間偶然その場に俺に対しあたかも己だけが知ったことのように得意気に語る下司野郎、つまり俺の叔母のような存在だ。実の親が介護ベッドで横たわる隣室で、『人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだ方がましやわ』と得意気に番茶を啜りながら嘆息していた奴が、祖母の枕元で『お母ちゃん、辛いなあ』と無知特有の自己満悦にも等しい涙を流すのだよ、一度も襁褓を替えようともしたことがない己を省みることもなくね、朋輩(ニガー)。陳腐な悲劇ってのはいつも月並みで特権的な語り手を作るんだってな。俺もそのお仲間だと? ha、ha、どっちでもいいさ、好きに決めてくれよ。但し、この俺なくしては、ばあちゃんは介護さえ受けられなかった身体だったってこと、YO、こいつに関しては尊大に語らせてもらうぜ、俺はこの件の権威なんだ。≫

 この作者の批判と批評はかなり過激である。社会的な言説を吹き飛ばすだけの力を秘めている。今まで、これだけ低い位置から介護や老人問題を論じたり、描いたりした論文も小説もないだろう。
 私は、この小説で作者は、−「介護とは何か」なんて論じていないと言ったが正確ではない。語る言説のレベルが違うだけで、充分に語っている。介護者についてもヘルパーについても、親族についても。
 この小説は、現代風のラップ文体を駆使し、諧謔と怒りと悪意を秘めた「新しい私小説」として読むことも可能だ。むしろ車谷長吉の影響を濃厚に受けた過激な「私小説作家」の誕生と見た方がいいかもしれない。
 ちなみに、モブ・ノリオは1970年生まれ。奈良県桜井市出身の33歳。大阪芸大文藝学科卒。現在無職。

 十文字美香の「狐寝入夢虜」(きつねねいりゆめのとりこ)も、モブ・ノリオに負けず劣らずの痛快な傑作である。一見、古めかしい文体と装置を装っているが、その作品の質は新しく実に新鮮な衝撃に満ち満ちている。昨年「文学界」新人賞でデビューし、芥川賞は若い二人に奪われたものの、強烈な皮肉と諧謔で新風を吹きこんでいる絲山秋子が、先ごろ「川端康成賞」を受賞したらしいが、絲山秋子に続く、繊細、且つかなり図太い神経を持つ女流作家の誕生と言っていい。
 この小説の主人公も社会的には典型的なオチコボレである。しかも楽天的。絲山秋子モブ・ノリオの作品に通低している。
 「鳥子」は無職である。職を探してはいるが働く意欲はない。最低限飢え死にせずに生きてさえればそれで満足するような女である。友人や家族に依存し居候を繰り返しつつ、口先では高尚なことを言っている。

      ■山本義隆の大作に血迷った批評家たちへ

 一方では、「文学界」6月号に、山本義隆の総計1千ページに及ぶと言う評判の大著『磁力と重力の発見』(大仏次郎賞,毎日出版文化賞受賞)に対して、大時代的なお世辞批評が載っている。が、私はそれを一読して興醒めすると同時に、これは文芸誌の自殺行為ではないかと思った。別に褒めてはいけないと言いたいわけではない。その褒め方があまりにも常識的、社会的すぎる。文芸誌でやることではない。場所が違うだろうと思う。取り上げるなら、東大全共闘議長として大学制度を批判し知性の反乱とやらを唱えた山本義隆の欺瞞と裏切りを暴くべきである。30数年後に平凡な学者の仲間入りですか。
 しかも、山本の大著を論じている野家啓一池内了の文体と発想は、まさに学会の紀要的なもので、批評的センスに著しく欠けている。極端に言えば、大きければいい、長ければいい、という内容無視の物量主義的発想である。分厚い著書を粗製濫造する小黒ナニガシの思想史と同じである。こういう空疎な物量作戦を、一行で粉砕するのが批評であり文学であり小説であろう。柄谷行人は、かつて知性の叛乱や大学解体を唱えた山本等に対して、出来るなら「知性の叛乱」とやらを徹底してやってみろ、と批判したことがある。この「大著」がそれだというのだろうか。中身がないから量で勝負しただけではないのか。メロドラマである。
 私は、こんな物欲しげな「大著」より、大学入学と同時に読書きちがい、古書店めぐりのきちがいとなり、83歳の現在まで60数年をかけて随筆やエッセイの古書を集め続け、随筆とエッセイの違いについてすでに400枚の原稿を書いたが、あと400枚は書かなければならない、しかし83歳になった今、体力がそこまで持つかどうかわからない、この随筆とエッセイの交通整理を私からひきついでくれませんか・・・・・・と古書店主に語りかける老人の話(松浦弥太郎「随筆とエッセイ」「群像」6月号)に感動する。松浦のこの文章はわずか二ページのエッセイだが鬼気迫る内容である。
 ここにも大きな物語と小さな物語の違いがある。いずれにしろ、山本の「大著」は論壇では通用するかもしれないが文壇や文芸誌では通用しない。それを褒め称えるのは文芸誌における文学精神の衰弱以外のなにものでもない。