■文壇的な社交よりも文学精神を優先せよ!(「月刊日本」五月号)

yamasaki32004-04-10

 ■文壇的な社交よりも文学精神を優先せよ!
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 私が、最近、注目している笙野頼子柳美里、それに新人の絲山秋子の三人の女流作家が、それぞれ個性的で挑発的な作品を発表しているので、この三人について書いてみよう。というのは、この三人の作家とその作品には、近頃では珍しくなった、存在の根源に根ざした激しい文学的怒り(根元的な差異)が存在するからである。これは文学の不振や停滞が叫ばれる中で貴重である。つまり彼女たちは文壇的常識と化している「文学批判」論や「文学は終わった」論とは無縁であり、むしろ逆に徹底的に文学的であり、文学主義的である。つまり文学そのものを肯定し擁護している。言い換えれば、今や、それこそが文壇においては反権力的、反制度的だからだ。文学は、こういう文壇的固定観念を無視した反制度的女流作家たちによってかろうじて維持されていると言っていい。

 逆に、文学的怒りを喪失してもっぱら文壇的常識に依存し、文壇内の「社交」と「ポスト」に耽溺しているのが男性作家や男性批評家たちである。たとえば、私は、19歳と20歳の芥川賞作家を選考した先頃の「芥川賞選考会」では、一人か二人の選考委員がこういう選考方法と選考結果には納得できないと席を蹴り、やがて選考委員の辞退問題にまで発展するのかと思っていたが、選考委員を辞めるような作家はどこにもいなかった。ここでも文学よりも社交が優先しているのである。今や文学などに命を賭けるのは愚かであり、選考委員という肩書きを優先するのが常識なのである。文学や小説が地盤沈下するのも当然だろう。

 ところで、私が先に挙げた女流作家たちは社交的ではない。笙野頼子が、大塚英志との「売り上げ文学論争」を契機に「群像」から追放(絶縁宣言)されたことはよく知られているが、柳美里も「八月の果て」という「朝日新聞」連載小説を連載途中で打ち切られたと言う。彼女等は、出版社と絶縁したり、新聞社から追放されるほどに過激なのだ。新人の絲山秋子でさえ、生涯、不遇のまま貧乏するだろうがそれでも「売れない純文学」に固執し、それを書き続けていくと宣言している。

 ■福田と島田は何故、論争を回避して社交に逃げたのか?

 これにに対して、たとえば福田和也島田雅彦のような男たちはどうか。先頃、島田雅彦の『無限カノン』をめぐって激しい批判の応酬を繰り返し、これは文学生命を賭けた大論争に発展するのかな期待させたのだが、この二人は、その期待をあっさり裏切って嬉々として手打ちの対談にのぞんでいる。(「新潮」5月号)。

これでは文学も批評も成立しない。私などははじめから、この論争は「馴れ合い」の「ヤラセ」だろうと予想はしていたが、それにしても不甲斐ない結末というほかはない。二人は、なぜ、論争を避けるのか。これはまぎれもなく、今、彼らがその存在の根源に根ざした文学的な怒り、つまり文学に対する根元的な違和感を持っていないという証拠ではないのか。

 たとえば島田雅彦は、この対談で、こう言っている。

 「この三部作の中ではまぎれもなく皇室に触れていますから、いくら微妙なとろを曖昧にしても、自分の天皇観を表明することは避けられません。」

 しかし、そう言いながら、決して踏み込んだ発言はしていない。「自分の天皇観を表明するのは損か、得か・・・・・・」と言った「損得」の次元へ逃げている。つまり島田雅彦にとって天皇制は、一種の話題づくりの素材に過ぎなかったのであって、島田雅彦自身の存在に深く関わっているわけではないと言うことだろう。「などてすめろぎは人となりたまいし」という恨みの言葉で自らの天皇観を表明し、天皇という存在に全身全霊を賭けて挑戦した三島由紀夫とは雲泥の差である。それは福田和也についても言えるだろう。「お勉強」としての天皇制談義に終始しているというのが、私の感想である。それでは小説も批評も成り立ちようがない。

  ■「朝日新聞夕刊」連載の柳美里の「八月の果て」は何故、打ち切られたのか。

 対照的に、柳美里の「朝日新聞夕刊」連載小説「八月の果て」が、あまりにも挑発的で、支離滅裂な展開に業を煮やした編集部によって途中で打ち切られたらしい。当然といえば当然の処置だが、何はともあれ、柳美里が妥協せずに、そこまで問題を深刻化させ、連載中断という異常事態を引き起こしたことを、作品の評価は別にして、私は尊敬せずにはおれない。おそらく新聞の連載小説が作者に継続の意思があるにもかかわらず、打ち切られるという事態は前代未聞の珍事とでも言うほかはない。

 ちなみに、その中断された「八月の果て」の続編完結部分の一部が「新潮」5月号に掲載されている。次号の6月号で完結ということになるらしい。私は、柳美里の小説や評論を高く評価しているが、すべてを評価している訳ではない。いつも、「限界を越える」というところが柳美里の作家としての才能だが、しかしこの小説家の場合は、それは決していい効果を与えていない。明らかに、限界を越えているだけではなく、ハメをはずしすぎている。それは、在日という問題にかかわっている。

 柳美里自身が、「在日」ということでその種の問題に敏感なのはよく理解できるが、私は、柳美里の歴史問題や慰安婦問題に対する論理展開には批判的だ。『仮面の国』に纏められた「右翼サイン脅迫事件」や、韓国人女性への「プライバシー裁判」等のエッセイでも、私は柳美里を支持していない。日本のナショナリズム植民地主義を批判しながら、韓国・朝鮮のナショナリズムには鈍感で、逆にそれを美化する論理も明らかに破綻している。いわゆる在日という問題になると、柳美里は急に「正義の人」というロマンチシズムの虜になる。そこに柳美里の欠点と限界があることは言うまでもあるまい。

 この「八月の果て」という小説にも、その欠点と限界が露呈している。柳美里の文学的ラディカリズムは評価するが、この小説はいずれ打ち切られるべき小説でしかなかった、と私は思う。

 小説は、マラソン選手(李雨哲)とその一族(柳美里の先祖?)を軸に展開する。彼は、1940年の「まぼろしの東京・オリンピック」のマラソン出場に夢を賭けていたが、戦争の激化でオリンピックが中止になり、挫折する。やがて祖国を捨てて日本へと逃亡、パチンコで生きていくことになる。対照的にベルリンオリンピックでは、同じ民族の「孫基禎(ソンキジョン)」が「日本人」として金メダルを獲得し優勝する。しかも、弟が共産主義運動にかかわり、逮捕されたあげく虐殺されたという体験も持っている。

 明らかにこの小説は、柳美里の自伝的なルーツ探しの小説だが、素材が伝聞や資料に依存しているために小説としてのリアリティーが感じられない。特に日本という「敵役」を前提に成立しているために、自己批評性にとぼしく、逆に一族の自慢話に堕落しかねない危険性を秘めている。この小説では、韓国・朝鮮人は「被害者」として設定され、無制限に美化される存在となっている。たとえば殺された弟について。

 「『左翼運動に関係のない学生たちも涙で顔を濡らしましたよ 慶南商高のものはみんな先輩のことが大好きでしたよ』 すっすっはっはっ 『われわれ下級生たちは憧れておつたし 上級生たちは信頼しておったし 先生方は誇りにしておりました 成績優秀で足が速くて美男だというだけではなく』・・・・・」

 この一節に見られる「節度のなさ(自己批評の欠如)」は、韓国・朝鮮語を多用した小説の文体にも反映している。柳美里の果敢な文学的挑戦を認めながらも、こういうところに柳美里の小説の限界を感じる。「在日韓国人ならすべてが許される」かのような戦後的な言説空間がたしかに存在した。それを支持してきたのが朝日新聞だった。皮肉なことに、朝日新聞も、柳美里のワガママに付き合い切れなくなったということだろう。

  ■笙野頼子の「金比羅」と絲山秋子の「勤労感謝の日

 柳美里と同じようにポレミカルな女流作家に笙野頼子と、こちらはまだ新人だが絲山秋子がいる。いずれも論争的でラディカルな作家であると私は見ている。

 私は、笙野頼子の評論やエッセイも高く評価している。たとえば、「純文学の時代は終わった」とか「純文学と大衆文学の違いはなくなった(クロスオーバー)」とか安直な情勢論で文学を解読する批評家や文芸記者を相手に激しい論争を挑んだ(『ドンキホーテの論争』に纏められた・・・)純文学擁護論争は、この作家が平凡・凡庸な作家ではないことを立証している。

 しかし笙野頼子も、柳美里と同じく、批評的言論の限界をよく自覚している。そこであくまでも小説という器で勝負しようとする。私はその点では、柳美里笙野頼子も高く評価する。批評的言説はわかりやすいが限界がある。その差異を自覚した時、作家は作品に向かう。むろん批評家も同じである。批評家もまた批評的言説の限界を見極めた末に、時評的言説を中断し、「批評の作品化」という困難な道へ方向転換する。小林秀雄吉本隆明江藤淳もそうした。柄谷行人もそうしている。

 さて、笙野頼子の「金比羅」(「すばる」4月号)は、柳美里の小説と同じく自伝的な小説である。

 「伊勢」神宮の近くに生まれた「私」(笙野頼子?)は、伊勢という中心的な神になじめない。自分は、伊勢の神ではなく、「金比羅」である、という自覚を持つことによって「私」の存在の危機を乗り切り、やがてその自覚の元に生きていく。

「一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました。自分でも判らない衝動からです。というか、神の御心のままに、そうしたのです。」

 これが「金毘羅」であり、「私」の誕生である。「金毘羅」という神については、こう書いている。

 「ようするに金毘羅はわけの判らないものだ。というより構造だけの存在、反逆的なものだ。その反逆性が人の信仰を自在にさせる。それこそが金毘羅の実体である。」

あくまでも中央の神(伊勢)にたいする場末の反権威的な神(金比羅)という対比が、笙野頼子存在論であるようである。むろん、その構造は日常的な世界に対する文学的な世界の構造でもあろう。 

 絲山秋子の「勤労感謝の日」(「文学界」5月号)は、総合職で就職した女性が、いつのまにか負け犬のような存在になり、失業保険をもらうようになる。そして突然、見合いの席に座らせられるが、大恥をかかされ、怒り狂うという話である。

 柳美里笙野頼子絲山秋子に共通するのは無尽蔵の怒りである。この怒りのないところに文学や批評は存在しない。その意味で、この三人の小説は、いくつかの問題を抱えてはいるが、これからの文学を考える上でも指針となるであろう。

 男たちよ、社交よりも文学を優先せよ。文学は立身出世の道具ではない。