■山崎行太郎の『月刊・文藝時評』 【「月刊日本」4月号】

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」4月号
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> ■小泉も菅も、なぜ、外野席の男・高杉晋作に改革者の理
> 想を見るのか?
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> 19歳と20歳の芥川賞作家誕生で100万部以上も売れた
>という「文藝春秋」3月号に、芥川賞騒動とは無縁だが、かな
>り面白い批評的エッセイが載っている。磯田道史の「平成の
>宰相論 高杉晋作の呪縛」がそれである。サブタイトルには、
>「小泉も菅もなぜ高杉に改革者の理想を見るのか」とある。
>磯田は、「新潮」3月号にも書評(野口武彦の新著『南畝』)
>を書いているが、こちらも批評的になかなか鋭い書評になっ
>ている。筆者は初めて名前を聞く人だが、文学の問題とも深
>くかかわっているので、まずこの問題から始めたい。
> そこで、磯田は、小泉純一郎菅直人安部晋三等、「平
>成日本の政治家たち」の読書法から読書傾向、あるいは歴
>史趣味について厳しい理論的、且つ学問的批判を展開して
>いる。私も、かねがね「小泉総理」をはじめとして、最近の政
>治家たちが撒き散らすウスッペラな歴史趣味や芸術趣味に
>は大いに疑問を感じ、そこに、平成日本の思想的・文化的
>退廃と、政治的・経済的混迷の源泉があるのではないかと
>思っていたので、このエッセイを興味深く読んだ。
> 磯田は、「平成の政治家たち」と「明治・大正の政治家
>たち」を比較して、その読書の質に「雲泥の違い」があった、と
>言う。 たとえば、「西郷隆盛西園寺公望などは、読書が趣
>味の枠をこえて、ほとんど生きるよすがになっていたところがあ
>る。」と。しかも彼らの読書は、主に古典(春秋左氏伝、孫子
>新井白石、佐藤一斉・・・)であり、その読書法も、テクストの内
>容を鵜呑みにせずにテクストと批評的に対話し、それを乗り越
>えようとする「批判的読書法」(ちなみに西郷はそれを「対越」と
>言った・・・)だった。西園寺などは、読んでいる本の中に、「私の
>意見は違う・・・」と執拗に「異見」を書き込む奇癖の持ち主だっ
>たらしい。つまり、「西郷や西園寺は、古今の英雄賢者と、直接
>に、話をかわす時間を重んじた。誰かが書いた平易な解説本
>などは読まない。英雄賢者と直談判したいのであって、『取次』
>と話しても仕方がないからである。」
> それに対して平成の政治家たちの読書が古典ではなく、
>面白おかしく書かれた通俗的歴史小説」(誰かが書いた平易な解
>説本!)であると磯田は揶揄し、彼らの読書の貧しさを批判し痛罵
>する。ちなみに、小泉総理は歴史小説が大好きで特に池宮彰一郎
>の歴史小説を愛読している、と「週刊宝石」や「オール読物」等のメ
>ディアにまで登場し、公言しているそうだ。哀れというしかない。
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>   ■古典を誤解したまま引用する政治家や知識人!
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> たとえば、小泉総理は総理就任の挨拶で長岡藩の「米百俵」の話を紹
>介し、再選の挨拶では孟子から引用した。
> 「『天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を
>苦しめ、その筋骨を労せしむ。という孟子の言葉を改めてかみしめ、
>断固たる決意をもって改革を推進して参ります』」。
> この挨拶を聞いて、小泉総理の読書量や古典的教養に感服した
>人が何人いただろうか。私は、大関横綱への昇進の挨拶で、意
>味さえろくに理解できないような難解な「四字熟語」を連発して失笑
>を買った「某兄弟力士」を思い出した。
> たとえば、最近の政治家は、理想の人物として、よく坂本龍馬の名
>前をあげるが、それが司馬遼太郎の書いた「歴史の平易な解説本」
>でしかない『竜馬がいく』の受けりであることは明らかだ。そして最近は
>坂本龍馬に代わって高杉晋作が人気らしい。小泉、菅、安部の三人
>が、ともに高杉晋作のフアンなのだと言う。
> そこで磯田は、政治家としての高杉晋作を、常に政治的責任を回
>避する「外野席の無責任男」だったと批判する。つまり、小泉、菅、安
>部、ともに政治的責任を回避する「外野席の無責任男」ではないの
>か、と言っているわけだ。まことに鋭い批判である。
> これに対して、大久保利通伊藤博文こそが、「日本の国家は自
>分の肩にのっている。」という国家体現意識を持った為政者としての
>自覚を持つ政治家だった。しかし最近の政治家で、大久保や伊藤
>を尊敬すると言う政治家はいない。わずかに小沢一郎ぐらいだ。
> 最近の政治家たちは、なぜ大久保や伊藤ではなく、漫画か劇画
>のヒーローのような坂本龍馬高杉晋作にあこがれるのか。それは、
>彼らに政治家として「権力の当事者意識が薄い」からではないのか。
> 高杉晋作のような人物が、物語や小説の主人公として人気を獲得
>するのはいい。しかし、それを政治家たちが理想の人物と見なすこと
>には問題がある。では、なぜ、通俗的歴史小説(たとえば司馬遼
>太郎の小説)で、歴史や政治の本質を語れると錯覚する幼稚な政
>治家たちが増えてきたのか。
> 実は同じような現象が、文壇や文芸誌にも蔓延している。「批評の
>コラム化」とでも言うべき現象ある。おそらく政治家たちも、いつのまに
>かその影響を受けているのではないか。
> 
>  ■文芸誌における「批評のコラム化」を排す!
> 
> 今月、完結した坪内祐三の「『別れる理由』が気になって」(
>「群像」)がその代表である。「誰も傷つかない」、「誰も怒らな
>い」、「まことに人格円満」、「人畜無害」の評論の見本である。       
     
> 私は、この連載が始まった時、これは作家論でも作品論で
>もなく、ただ単に文芸誌の誌面を長時間、独占したいために
>書き延ばしているだけではないのかと思ったものだが、連載
>が完結した今、あらためてそれを確認せざるをえなかった。そ
>して最終回の文章にこんな一文を発見して愕然とした。            「私はこの連載のため、『別れる理由』の本文を含む資料
>読みおよび原稿執筆のため、毎月、平均、三日間をついや
>している。(中略)月平均三日だから、のべ日数にすれば約
>二ヶ月間、私は、『別れる理由』と共にあったわけだ。」
> いやはや。私は、こういう文章を、堂々と書ける図太い神経
>にただ脱帽するほかはない。それにしても「三日間」で書きと
>ばせる連載原稿とは何か。評論に名を借りた身辺雑記なの    
>か、それとも週刊誌のコラム的雑文なのか。
> むろん、批評にも様々な批評のスタイルがあっていい。し
>かし、ただ批判や反撃をおそれて、批評を回避している「優
>等生(劣等生?)の作文」のような評論はやはり批判してお
>かなければならない。賛否両論があることこそ批評の本質
>であろう。                                
三島由紀夫論」で「小林秀雄賞」を受賞して、今や沈滞気味
>の文芸評論の世界で救世主のように思われているらしい橋本治
>が、「小林秀雄」論の連載(「新潮」連載)に続けて、今度は「群像」
>で「平家物語」論の連載を開始した。私はこれにも疑問を感じる。
>橋本の批評に、批評を活性化させるような何かがあるだろうか。
>私にはとてもそうは思えない。小林秀雄論も平家物語論も、並の
>ものだろう。いや、これは厳密に言うと批評ではなく、高尚な文学
>趣味をひけらかすだけの甘口コラムでしかないのではないか。
> 「平清盛・大悪人という定説が生まれたのは、なぜか?日本文
>化の根源を問う、画期的な評論」というのが宣伝文句だが、たし
>かに面白そうなテーマだが、いかにも通俗的なテーマではなかろ
>うか。すでに最初から答えがわかっているような問いである。「誰
>かを怒らせる」ような鋭い問いとも思えない。私が、「批評を回避
>している・・・」というのはそういうことだ。こういう面白い解釈も成
>り立ちますよ・・・という相対主義的批評である。
> 渡部直巳の、「死ンデモ感ジテ見セル 谷崎潤一郎の『家庭』
>小説」(「新潮」3月号)が体現している戦闘的な批評性に遠く及
>ばないと思う。まだ渡部の谷崎論には、文学の本質論に直結し
>た批評性が感じられる。
> 同じように私は、理論的な破綻や齟齬を恐れずに、言語哲学や文
>学理論を総ざらいして、『テクストから遠く離れて』という連載評論
>を強引にまとめ上げた加藤典洋や、評論集『ジャンクの逆襲』を刊行
>したスガ秀実等の批評に軍配をあげたい。橋本の評論は人畜無害な読
み物だが、加藤やスガの評論は、近づけば、お互いに         
>血が吹き出すかもしれないような論争的な批評性を備えている。
> 坪内祐三橋本治、あるいは三浦雅士等に代表される最近
>の文芸誌的批評は、逆方向に向かっているように見える。つ
>まり、「批評の回避」「批評のコラム化」「批評性の喪失」の方向
>である。批評とは闘争や論争をともなうものだろう。論争を回避
>する高尚な文学趣味系の評論家たちの台頭は批評の衰弱の
>結果以外の何物でもない。
> スガは、文芸誌から匿名批評欄がなくなってから文芸誌の衰
>退は始まったと言うが正論である。しかもスガは、玉石混合とは
>いえ、今や「2ちゃんねる」の書き込みに批評があると指摘して
>いる。まったく正しい。
> 
>  ■今月の小説について                
               
 母親の娘に対するイジメ問題をあつかった増田みず子の「大事
>な人」(「新潮」3月号)が鋭い問題を提起している。最近、母親に
>よる幼児虐待がしばしばマスコミの話題になり、その種の問題に
>対する議論も活発に展開されているが、そこでの議論では常に母
>性愛が前提にされている。母親は子供を無条件に愛し、無償の
>愛情を注ぐものだ(そうあるべきだ・・・)という前提である。しかし現
>実には躾や愛情の大義名分の元に母親によるイジメや虐待は続
>いていると思われる。
> 増田みず子は、この小説でまさしくその問題を取り上げ、魅力的
>な小説に仕立てている。小さい頃は自分の娘を厳しく支配し、抑圧
>しておきながら、娘が独立し始めると逆に徹底的に無視し、会おう
>ともしない母親。娘との交流を拒否して、「呆ける」寸前まで二人       
>だけで暮らそうとする老夫婦。両親の娘への虐待と恨み。予想外の
>展開でちょっと驚く。微温的な世間の常識に挑戦する秀作だ。
> 吉村萬壱の「岬行」(「文学界」月号)は、社会からはみ出し
>た男女が場末の酒場を舞台に繰り広げる絶望的な生活を描いてい
>て印象的だ。しかし、二人の男女の絶望に比して、大学の教育学
>部を出て親に依存して暮らしている主人公の青年には自己批評
>が足りない、と思われる。それは作者自身の批評性の欠如にも直
>結している。
> 鈴木清剛「バンビの剥製」(「群像」)は、成績優秀な優等生であ
>りながら、あまり周囲の人間に好かれないままに成長した「姉貴」と
>同居している青年の話だが、鋭さという点で金原ひろみの「アッシ
>ュ・ベビー」に遠く及ばない。私は、30歳をを過ぎてもまだ「処女」
>ではないか、と弟に勘ぐられているこの「姉貴」の孤独に興味を持
>つが、まだその存在の秘密が描き尽くされていないように感じる。
>一生独身で生きていくと決断し、マンションまで買ってしまった「姉
>貴」の無意識り闇にもっと踏み込み、その秘密を暴き出すべきだ。
> それが文学なのだから。                         
          
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