■文学は政治である。■ 「中国問題」で村上春樹を読み直す

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」      山崎行太郎

■文学は政治である。
芸術至上主義者は、自分の小説や批評は、たぶん政治と無縁であると言いたいかもしれないが、その言い方は間違っている。政治をどんなに嫌っても、どんなに頑強に政治に背を向けても、政治的なものから自由ではありえない。芸術や言語そのものがすでに政治性を帯びているからだ。したがって政治と無縁であると思うことは一種の自己欺瞞たらざるをえない。極言すれば、むしろ「反政治性」ということ自体がきわめて政治的なのである。たとえば小林秀雄の批評は「反政治的」ではあったが、政治と無縁だったわけではない。それは、小林秀雄という批評家が政治的関心や歴史的関心の強い人であったということだけを意味するのではない。「反政治」であるためにも、政治的な手続きが必要だったからである。小林秀雄マルクス主義という思想と対決していく過程で政治と真正面から向き合わざるをえなかった。マルクス主義という政治的な思想との対決なくして日本の近代批評は存在しない。したがって、小林秀雄の系譜に連なる吉本隆明江藤淳のような批評家達が、きわめて政治的な問題に深入りしていのも当然だった。それは小林秀雄的な批評が何を意味しているかを示している。つまり、小説や批評そのものが政治的なのである。「第三の新人」や「内向の世代」の作家や批評家達は、政治に背を向け、政治と無縁でありうると信じていた文学世代である。しかし、皮肉にも彼らこそが、文学や言語の政治性に無自覚なままに、言い換えれば「反政治な文学」という看板を掲げながら、現実の場面ではもっとも政治的で世俗的であった。壇の役職類を独占し、文学賞や勲章等を貪欲に獲得し続けているのは、実は彼等なのである。彼らの文学が面白味に、つまり批評性に欠けるのは、政治的なものに無自覚でありながら、具体的な場面では無自覚なままに過度に政治的だからである。
いずれにしろ、批評が政治と決別し、美的、芸術的な解釈ゴッコにとどまる時、文学や批評は終わる、と言っていい。そこでは、批評や小説は、芸術でも文学でもなく、解釈学という反批評的な精神の営みに堕落するだけだ。われわれが文学や批評に期待するのは、そういうものではない。批評とは政治的なものであり、政治的なものとの対決である。
 さて、文芸誌では、今年も新人賞の季節が到来したが、「群像」の新人賞の評論部分に、珍しく「中国問題」という今日的な政治的なテーマを扱ったアクチュアルな評論が「優秀作」として選ばれている。水牛健太郎の「過去 メタファー 中国 ――ある『アフターダーク』論――」がそれだ。
■ 「中国問題」で村上春樹を読み直す。
水牛健太郎は、村上春樹の最新作『アフターダーク』を論じながら、村上文学の底流を流れている「中国問題」なるものを取り出し、そこから村上文学を読み直し、同時に現代の日本人が直面している問題が何であるかを解明するという荒業を、実に平凡で、わかりやすい言葉と文体で追求している。
 『アフターダーク』には、中国人の娼婦が登場し、日本人に殴られ、すべてを奪い取られるのだが、たとえば村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』等の初期三部作にすら、すでに「中国問題」が存在していた、と水牛は言う。
村上春樹の一九七九年のデビュー作『風の歌を聴け』と、それに続く『1973年のピンボール』(一九八〇年)、『羊をめぐる冒険』(一九八二年)の三作品には、「ジェイズ・バー」のマスター「ジェイ」が登場する。ジェイは主人公の「僕」と友人の「鼠」の故郷の町でバーを経営する中国人だが、家族との縁が薄い「僕」と「鼠」を常に暖かく迎え、帰るべき場所を与える慈父のような存在だ。ジェイは積極的にストーリー展開にかかわることはないが、それだけに作品世界を根底で支える大きな役割を果たしている。『羊をめぐる冒険』のエピローグで「冒険」を終えてジェイズ・バーに帰ってきた「僕」は、ジェイに「僕と鼠に何か困ったことが起きたらその時はここに迎え入れてほしいんだ」と頼み、ジェイは「これまでだってずっとそうして来たじゃないか」と答える。/中国人ジェイとは果たして何者だったのだろうか。》
村上春樹の初期作品から、この「中国人ジェイ」を取り出し、そこに「中国」という問題(メタファー)を読み込んでいく手つきは鮮やかである。選考委員の加藤典洋が、「こういう書き手は、実はそういるものではない。」と絶賛しているが、私は加藤の言うことは正しいと思う。文字通り、「こういう書き手は、実はそういるものではない」のだ。明らかに政治的なセンスが、言い換えれば批評的センスが感じられる。
 さて、水牛の分析に戻ると、水牛はこの評論を『アフターダーク』の次の一節を引用することから始めている。それはこういうものだ。
《『逃げ切れない』と高橋は、その三日月を見上げながら声に出してみる。/その言葉の謎めいた響きは、一つの暗喩として彼の中に留まることになる。逃げ切れない。あんたは忘れるかもしれない、わたしたちは忘れない、と電話をかけてきた男は言う。(中略)わたしたちって、いったい誰のことなんだ?そして彼らはいったい何を忘れないんだろう。》(『アフターダーク』)
この村上春樹の『アフターダーク』という小説によると、中国人の娼婦が日本人に殴られ、持ち物を奪われ、その奪われた持ち物の中の携帯電話から聞こえてくる声が、「逃げ切れない」とか「わたしたちは忘れない」という引用文の言葉である。この言葉をきいワードに水牛は、村上春樹の文学と、村上文学が提起している問題を読み解いていく。むろん、きわめて政治的な問題としてである。私は、多くの点で水牛の解釈には反対だが、水内の分析と論理には感服せざるをえなかった。やや大げさに言えば、私としては村上春樹の小説が、はじめて理解できたように思った。
■中国に対する大きな期待と裏腹の不安と恐怖
さて、村上春樹の小説の中の、「わたしたちって、いったい誰のことなんだ?そして彼らはいったい何を忘れないんだろう」という疑問が起こるが、作者村上春樹は、この問題を、「つまり『わたしたち』とは中国人のことであり、『日本人』が過去に行った所業(暴力行為と財産の略奪)について、『忘れない』と言っている。」と説明している。
 換言すれば、村上春樹の『アフターダーク』の中の、中国人娼婦への暴力と略奪は、日本人の満州(中国東北部)への侵略と現地住民への加害行為の「メタファー」になっているということになる。
 わかりやすい解釈と説明だが、ここで、水牛はさらにこう分析する。
《そのように考えるとまた、上に引用した電話でのメッセージが、いまの日本人が中国に対して感じている、不安と恐怖を象徴的に表していることがわかる。/負い付かれる恐怖。そして「執念深い」中国人によって復習される恐怖。それは、一昨年、西安で日本人留学生の寸劇を誤解した中国人学生らが暴徒化した事件、昨年七、八月のサッカー・アジア杯での中国人観客の激しいブーイングなどの事件の度に噴出する、日本人の中国への不安を映してもいる。『アフターダーク』の携帯電話のメッセージは、こうした不安感の根底にあるのが、かつて日本人が中国に大きな被害を与えたために、中国が国力を付けたら復讐されるのではないか、という恐怖感なのだということを、これ以上ないほどに鮮やかに表現しているように思われる。》
これが水牛の結論と言っていい。むろん、私はこの「謝罪論的」中国認識という結論に賛成しないが、しかし村上春樹や水牛健太郎が、あるいは日本人の多くが感じているらしい「中国に対する大きな期待と裏腹の不安と恐怖」の感情には共感できる。村上春樹の文学は、欧米だけでなく、東南アジアや中国においてさえ爆発的に売れていると聞くが、これまでは私にはその根拠と背景が充分には理解できなかったが、水牛の村上春樹アフターダーク』論を読んではじめてわかったような気がする。世界中が村上春樹の小説を夢中になって読んでいるのは、そこに中国という問題がメタファーとして描かれているからではないか。まさかとは思うが、村上春樹がデビュー作以来、一貫して作品世界の背景に「中国と言う問題」を描きこんでいたとすれば、あながち、それも否定できないだろう。
ところで、巷には、中国の反日暴動に対する批判と侮蔑感が一般的な常識として蔓延しているが、作家としての村上春樹がデビュー作以来描き続けてきた中国問題は、またもう一つの隠された中国体験をわれわれに示しているようにも思われる。
 その意味で、水牛の村上春樹論は、総合雑誌や論壇ジャーナリズムが決して問題にしないような日本人の中国問題を、われわれに提起している。こんなことも水牛は書いている。
《中国はもはやノスタルジーの対象ではない。中国は過去の刻印を帯びたまま、生身の肉体を持って現代の日本に現れた。そして「わたしたちは忘れない」と迫ってくる。『アフターダーク』の中の中国。それは決して逃れられない過去、正面から向き合うことを要求してくる、現代に甦った過去そのものなのである。それはもはやメタファーですらない。》
■ 新人作家たちの「二作目のジンクス」
四十五歳以上の新人だけを対象にした文学賞を設けて話題になった「文藝思潮」という同人雑誌の創刊を記念して行った座談会で、批評家の井口時男が、「最近の小説にはいい意味での変化の胎動が感じられる」と言っていたが、新人賞受賞作のいくつかを読みながら、私も同じような感想を持った。
同じく「群像」の小説部門の新人賞受賞作「さよなら アメリカ」も、新鮮で溌剌としたいい小説である。作者の樋口直哉もまだ若い人のようだ。
 袋を被って生活している「袋族」の青年の物語だが、この「袋」が何を意味しているか、何の暗喩なのか、というようなことを考える必要がないほどにストーリイーも文体もともに軽やかに展開していく。最近の若い新人作家たちの作品から、作品を萎縮させ、窮屈な鋳型に嵌め込んでいたような何かが消滅したように感じられる。それは、同じく「群像」の「小説優秀作」を受賞した望月あんねの「グルメな女と優しい男」にも言えるだろう。「人間を食わずして、グルメを語るなかれ」という衝撃的な一句で始まっているが、かなり大胆な思考力を展開している。
 しかし、新人作家にはジンクスがあるようだ。二作目のジンクスとでも呼ぶべきジンクスが。たとえば、『漢方小説』という批評性の濃厚な秀作で昨年、デビューした中島たい子が、新しい作品「この人と結婚するかも」(「すばる」)を発表しているが、デビュー作に比べて格段に落ちると言わなければならない。メロドラマっぽい通俗的な新作を読んで、案外、こういう小説がこの新人の本質(体質)なのかもしれない、と感じた。樋口直哉や望月あんねにも、その危険性がないわけではない。