■西村賢太『けがれなき酒のへど』は文句なく今月一番の傑作だ。

「月刊・文芸時評」≪「月刊日本」12月号掲載≫      

■飯尾憲士と水上勉・・・・・・どっちがホンモノの作家か? 
 先月に続いて死亡記事関連で恐縮だが、飯尾憲士という作家が今夏、亡くなったらしい。「らしい」というのは私はこの作家についてこれまでその実像をあまり知らなかったからである。「すばる」新人賞受賞作家だということや、小説作品としては特攻隊について書いた『開聞岳』や終戦直後の軍人の自決を描いた『自決』ぐらいしか記憶にない。最近はもっぱら戦争関係のものばかり書いていたから、売れなくて戦争モノに転向したのかと思っていた。いずれにしろ、小説は発表されるたびにしばしば読んでいるが、ほとんど記憶していない。ということは、私にとっては、いてもいなくてもいいような作家だった、ということになる。
 しかし、川村湊が「すばる」11月号に書いた追悼的なエッセイ「柔らかい腹ーー飯尾憲士論」を読んでいるうちに、この飯尾憲士というあまり有名ではない地味な作家の生き方に触発されて、あらためて「作家とは何か」「小説とは何か」「文学とは何か」という根源的、且つ本質的な問題について考えさせられた。飯尾憲士という作家の生き方の中に、「ここにホンモノの作家がいる」と思わせるような何かがあったからだ。この「何か」が何であるかと問うことは重要だろう。そこに文学や小説の本質が隠されていると言っていい。そしてまた、昨今の「文学不振」、「文壇の地盤沈下」、「小説の終わり」・・・・・・というような議論ともこの問題は直結している。要するに、昨今の文学不振の根本原因も実はここにあるのだ。
 川村は、飯尾憲士の異常な「デビューの遅さ」から書き始めている。
  ≪飯尾憲士は、「海の向うの血」によって一九七八,年度のすばる文学賞(佳作)を受賞し、いわゆる文壇デビューした。一九二六年生まれ、満五十二歳のデビューは早くないどころか、きわめて遅いスタートである。(中略)このデビューの遅さは格別のものだ。それまで小説に手を染めたことがない、あるいは職業的な作家になる気などまったくなかったのなら話も理解しやすいが、(中略)一九六〇年代に交通事故で瀕死の重傷を負ったのを「契機に飯尾はまもなく退社し、思い切って文章一本の生活に入」った。しかし、これは本格的な”売れない小説家”の道、すなわち「髪結い亭主」として、婦人や家族に負担を背負わせながら孤軍奮闘する道を選んだ時のことであり、彼はそれ以前に、すでに”修行ー雌伏の時代”を長く経験していた。≫
 こういう日常的な価値や生活を犠牲にした上で文学に打ち込んだという経歴を読むと、多くの人が、飯尾の中に、一時代前の古色蒼然とした典型的な破滅型の文学青年の姿を推測するだろう。恐らくその推測は間違っていない。そして、ほとんどの人は、昨今はそんなものは流行らない、と言いつつこういう生き方をひたすら軽蔑し嘲笑するだけだろう。しかしその時、人は文学から排除され、健全だが不毛な日常的制度の中に閉じこめられるのだということに気付いているだろうか。健全な小市民的秩序に安住する者は、いわば、文学や芸術がもっとも必要とする外部=存在とのつながりを絶たれるのだ。昨今の作家たちは、一般庶民レベルの健全な価値観に閉じこめられ、ごく少数の例外を除いて、外部=存在について描けなくなっている。そこに文学の沈滞の原因があることは言うまでもない。
 さて、たまたま同じ雑誌に、飯尾と同じ頃に亡くなった水上勉に対する追悼文が多数掲載されている。しかし水上にはまことに申し訳ないが、私はこの追悼特集を飯尾憲士と比べたくなった。言うまでもなく水上は、一時的には苦労したかも知れないが、作家としてはやはり大成功した作家の部類に入るだろう。水上に比べると飯尾憲士はほとんど無名作家に近い。しかし私は、水上よりも飯尾の方に文学的関心を持つ。たしかに水上の小説はうまいかも知れない。しかし水上の要領のいい生き方が、それぞれの小説にも悪い意味で反映している。たくさんの追悼文を読みながらそう考えた。
■ 飯尾憲士という作家の生き方
 では、飯尾憲士とはどういう作家だったのだろうか。
 飯尾憲士は朝鮮人の父と日本人の母との間に混血児として生まれた。しかし父親は朝鮮人であることを恥じてそれを語ろうとはしなかった。長男であるにもかかわらず、十九歳で朝鮮という母国を捨てて日本に渡った父。朝鮮人であることを隠したまま、日本で一家をつくり、家族を養おうとしていた父。その父親は、朝鮮の家族や血族と没交渉のまま、日本で静かに五十四歳で死ぬ。
 飯尾憲士の五十二歳のデビュー作『海の向うの血』は、この父親のことを書いた小説である。この小説によると、飯尾は、海軍兵学校を受験する時まで、父親が朝鮮人であることを知らなかった。受験の時、はじめて父親が朝鮮人であるという「戸籍の秘密」を知る。そしておそらくそれが理由で受験には失敗する。飯尾は、それ以後、小説を書きつづけていたにもかかわらず、この問題を書くことはなかった。また友人たちの話によると、飯尾は、自分の父親が朝鮮人であることを決して語らなかったと言う。
 飯尾は、五十二歳になって初めて「父親の秘密」について書いた。それが飯尾憲士という作家のデビュー作となったというわけである。飯尾憲士の長い修行・雌伏の時代とは、この父親の問題を書くための準備期間だったように思われる。おそらく五十二歳になるまで、この問題をどう書いていいか、その書き方が分からなかったのであろう。言い換えれば、飯尾憲士もまだ完全に日常的な生活や価値観を捨てることが、つまり一族の恥を晒す確悟が出来ていなかったということであろう。
 飯尾は、≪永年、亡父のことを書かなければと思っていたが、筆の貧しさに気後れして、ふんぎりがつかなかった≫と書いている。家庭や生活を犠牲にしてまでも文学に打ち込むという生き方を早くから実践しようとしていた飯尾憲士も、父親のことは書けなかったのである。そこには、川村が言うように「親日派」だった父親の生き方を必ずしも息子の飯尾憲士が受け入れられなかったということもあるかもしれない。父親のことを書くとすれば父親を批判し、冒涜しなければならなくなるからだ。しかし、より根本的な問題は、飯尾に小説家としての不退転の覚悟がまだ出来ていなかったということであるように思われる。おそらく父親のことを書きたいと思いながらも、書いた後のことを考えて躊躇していたのだろう。飯尾が五十二歳まで、雌伏しなければならなかった理由もそこにある。要するに、父親の秘密を書かない限り、飯尾憲士という小説家は存在不可能だったのである。飯尾に、小説家という生き方を選択させたものも、また五十二歳までの修行―雌伏の時代を強制したのも、実は父親のことを書かなければならないという無意識の願望が強烈にあったからだろう。
 言うまでもなく、私生活を犠牲にしてまでも小説に打ち込む「殉教精神」の持ち主だけが、外部=存在を掴むことが出来る。健全な市民生活を送りながら一流の作家、芸術家を目指すというのがそもそも自己矛盾である。作家に犠牲を要求しないような思想も文学もないのである。作家として成功して社会的名士になり、豪邸に住み、誰からも尊敬されるような作家はしばしば文学や芸術の女神から見放されるものだ。われわれが、未だに北村透谷、梶井基次郎中原中也太宰治三島由紀夫・・・・・・というような夭折したり自殺したりした不幸な作家にこだわるのはそこに理由がある。彼らは小市民的制度の外側に出た作家である。彼らの不幸な生き方を通して、われわれは何かを見ることが出来る。
 実は、飯尾憲士は、「すばる」10月号に「逝く」という短編小説を発表している。小品とも言うべき本当の短編小説だが、印象に残る名品だった。「再起不能結核患者の青年が病院から脱走し、恋人と心中する話」だが、鬼毛迫る力作だった。川村の追悼文を読んで、この短編「逝く」が、飯尾憲士の遺作だったということを初めて知った。なるほどそうだったのかと今にして思う。
西村賢太『けがれなき酒のへど』は傑作だ!!!!!!
 「2004年下半期同人雑誌優秀作」として「文学界」に転載されている西村賢太『けがれなき酒のへど』は、文句なく今月一番の傑作だ。
 「同人雑誌推薦作」ということだろうか、活字も他のページよりも一段小さい活字で印刷されているが、小説作品としてはひときわ大きく光り輝いている。久々に小説を読んだという実感を味わった。この小説は徹底的にダメな男の、惨憺たるミジメな話である。デリヘルやソープランドの女に入れあげたあげく、女に100万円近い大金を騙し取られる話である。このダメさ、このミジメさがたまらないと私は思う。ここまでダメさ、ミジメさを執拗に書きうる能力はもう凡庸なものではない。
 西村賢太は、そのプロフィールを見ると、詳しくはわからないが、中卒で古書店関係の仕事をしている人らしい。そして「藤沢清造全集」(全五巻・別巻二、朝日書林)を個人編集していると言う。藤沢清造と言ってもほとんどの人が知らないだろう。私も、この「藤沢清造全集」の広告を見るまでは知らなかった。
 この小説は、その藤沢清造という作家に入れ込んで、「藤沢の没後弟子」を自認した上に、毎月、一人で命日に法事を執り行い、しかも独力で彼の個人全集まで出版しようとしいる男の話である。ということはこの小説の主人公は、西村賢太本人とほぼ同一人物と考えていいように書かれている。むろん、これが私小説かどうかを議論するつもりはない。問題は、作家や作者の生き方と作品そのものが深くつながっているということだ。そして飯尾憲士とも関連するが、日常的な価値や生活との距離の取り方である。
 藤沢清造という反社会的、反世俗的な作家との出会いについて、こう書いている。
 ≪私がこの能登七尾の寺にある、藤沢清造の墓を初めて訪れたのは三年前の春だった。大正中期にあらわれたその処女長編『根津権現裏』を、今の比ではなかったひどい四面楚歌の状況下で苦し紛れに読み、余りの共感からこの作家の他の著作むの掲載誌を古書展なぞで探していくうち、すっかり藤沢清造という作家の虜になった。生きてはくどいほどの律儀さと愚直なまでの正義感からなる行状で恥を晒し、死ぬ際にもなお恥の晒しおさめとでも云わんばかりな行路病者さながらの狂凍死と云う悲喜劇をやってのけたその人のことが、どうしても脳中から離れなくなっていった。すがりつくような思いでここを目指し。墓前にぬかずいたのである。以来、私はこの作家の、可能な限りを網羅した全集と評伝のム完成と刊行を、自分の最後の目標とする一方、毎月二十九日の命日には欠かさず菩提寺へ行くようになっていた。≫
 ここに、この小説の「底の深さ」がよく描かれている。現代の文学が失ったものは「貧乏」や「不幸」ではなく、こういう存在の奥底へ降りていこうとする過激な文学精神である。

■浅田彰は、柄谷行人の「空洞化」を賛美しているだけだ。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」     


 ■小笠原賢二という生き方。
 小笠原賢二という文芸評論家が亡くなった。58歳だった。
 とは言っても、小笠原賢二という文芸評論家がどれだけの社会的知名度があり、どれだけの文学的評価を受けていたのか……、簡単にわかることではない。それは小笠原の批評の対象が小説でなく主として短歌だったという事と無縁ではない。つまり小笠原賢二は、文藝評論家と言っても、どちらかと言えば、地味でマイナーな短歌専門の文芸評論家だったのだ。この事実は予想以上に重大な意味を孕んでいる。
 小笠原以前に短歌専門の批評家はいなかった。小笠原賢二は、我が国で最初の短歌専門の批評家だった。そしておそらくこれからも小笠原のような短歌専門の批評家は出てこないだろう。そもそも短歌の批評をするぐらいなら、すぐに短歌そのものを作ろうとするだろう。短歌を作らない短歌批評家という存在そのものが自己矛盾なのである。つまり短歌批評家という職業がそれ自体として事実上、存立不可能な職業なのである。その存立不可能な職業に敢えて挑戦したところに小笠原賢二の存在意義はあった。ちなみに小笠原は、北海道の増毛の生まれで、集団就職組の少年だったそうである。おそらく苦学しながら大学を卒業し、大学院まで進んだのだろう。そういう人が、なぜ、敢えて、短歌評論家という困難な職業を選択しなければならなかったのか?
 近代批評の確立者として評価される小林秀雄は言うまでもなく、近代批評家たちが取り上げてきたのは主に小説であり、詩であった。たしかに正岡子規以来、短歌や俳句の世界に批評がなかったわけではない。むしろ芸術論としては小説の批評よりはるかに純粋理論的で過激であったといっていいかもしれない。正岡子規に始まる「写生」論がその典型であろう。その写生論は、私小説的なリアリズム理論や文芸評論家の文学論をはるかに超えていた。しかしそこには専門の批評家はいなかった。誤解を恐れずに言えば、歌人俳人が片手間に取り組むのが短歌批評であり、俳句批評であった。小林秀雄の登場以前の小説の世界と同じである。
 江藤淳は、「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということは何を意味するであろうろうか」と問うた後で、「小林秀雄以前に自覚的な批評家はいなかった……」と言っているが、それはまさしく小笠原賢二にも言えることだろう。つまり「小笠原以前に自覚的な短歌批評家はいなかった」と言っていい。江藤淳は、「自覚的な批評家」とは、「批評という行為がその彼自身の存在の問題として意識されている……」ということだと言っている。

■ 「批評家になる」ということは何を意味するのか?
 小林秀雄自身が、このことについて的確にこう言っている。
  ≪彼(注・ボードレール)の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。≫(『様々なる意匠』)
 つまり小林秀雄の批評の核心は、単なる理論や方法ではなく、批評家としての生き方そのものにあったのだ。批評家として生きるとはどういうことか。それを問いつめたのが小林秀雄の批評だった。文芸評論というものの役割を、小説の解釈や解説、あるいは文学史への位置づけ……と勘違いしている人は未だに少なくない。したがって「便利屋」としてそういう批評家が文芸誌等でもしばしば優遇され、もてはやされる。しかしそこには批評はない。文芸誌における批評の位置と批評家の役割がそれを端的に証明している。そこには便利屋として適当に利用され、やがて使い捨てにされる「奴隷批評家」がいるだけだ。
 しかし、小林秀雄が実践して見せたものは、作家や文芸誌編集者の顔を伺いながら、右顧左眄するしか能のない「奴隷的批評家」としてではなく、詩人や作家と同じように自立した批評家として生きるという事だった。
 小笠原は、「短歌滅亡論」という過激な短歌論で短歌専門の批評家として登場して、そして歌壇の顰蹙を買いながらも妥協することなく、短歌批評というジャンルを確立すると同時に、志半ばで病に倒れたのである。小笠原は不可能なことに挑戦し、そしてその挑戦の挙げ句に死に直面せざるをえなかった。まさしく彼は短歌批評を生きたのである。
 言い換えれば、短歌という世界に批評というものちを導入した最初の批評家ということになる。お通夜の晩に、小笠原賢二の友人で、葬式の僧侶を勤めた福島泰樹が、「死顔は作品である。」と言ったが、まさしくそうであろう。小笠原賢二にとって「死顔」こそが作品であった。それが、「短歌批評家という前人未踏の世界を生きた証」である。
 小笠原は、短歌批評を始めたキッカケについてこう書いている。
  ≪この数年、短歌を論じる機会が急に多くなった。批判的な内容になりがちなため、歌壇内にはよそ者が妙なことを言い出したと見る向きもあるようだが、もちろん気まぐれで始めたわけではないし、またそんなことができる筈もない。私の短歌好きを知る編集者のすすめがきっかけになって加速度がついたのである。≫
 また「恒常的短歌滅亡論」を主張し続けた小笠原は、こう言っている。
  ≪言い換えれば、新たな短歌滅亡論の時代に入ったのである。】(いずれも『拡張される視野ー現代短歌の可能性』)
 小笠原賢二がどういう批評家だったかは、もう言わなくてもわかるだろう。

■秋山駿を読まない「柄谷行人フアン」へ
 小笠原賢二とは逆の方向に舵をきっているのが柄谷行人である。『定本柄谷行人集』全五巻完結を記念して、当事者の柄谷行人を囲んで、浅田彰、大沢真幸、岡崎乾二郎らが座談会をおこなっているが、私はこの陽気な座談会に強い違和感を感じた。(「文学界」11月号『討議 絶えざる移動としての批評』)
 最近、柄谷行人の関心はもっはら哲学や経済学の方に集中している。この座談会の出席者の顔ぶれがそれを象徴している。ここには柄谷以外に文芸評論家は一人もいない。中心は経済学や社会学の研究者たちである。しかし、にもかかわらず、柄谷行人がいまだにもっとも本質的な、強力な文芸評論家であることも間違いない。マルクス論から始まりソシュール論やウイトゲンシュタイン論、カント論へと続く柄谷行人の「哲学的」「思想的」な仕事は、深く現代文学や現代批評とも結びついている。柄谷行人以後の若手文芸評論家たちが、文学論や小説の技法等について具体的、実践的に語っているにもかかわらず、その影響力ははるかに小さい。柄谷行人が未だにスリリングな現役批評家たり得ているという証拠だろう。
 しかし、私はこの座談会に深い失望を禁じ得ない。ここには柄谷行人本来の文学的、批評的な問題がない。ここには空洞化した思考の産物としての理論や概念しかない。それはかつて柄谷行人自身が強く批判していた筈のものである。柄谷行人は概念化・空洞化することによって人気者になったのである。概念や思想は誰でも共有できるものだからだ。
 たとえば、この座談会の写真で全員が一様に歯をを見せて無邪気に笑っている。なぜ笑う必要があるのか、私にはわからない。この「余裕」は何を意味しているのか。これは第一線から降りた者たちの「余裕」であり「笑い」ではないのか。
 この座談会に出席している人たちは、おそらく「文芸」そのものにさして関心はない。それはたとえば大沢真幸という社会学者の次のような発言に端的にあらわれている。
  ≪僕は京都大学で学部学生むけの、特に一回生、二回生が多い、読書会のようなゼミを受け持っているんです。今年はそのゼミで柄谷さんの『定本』を読んでいます。自分自身、学生のときに読んで、たいへん衝撃を受けたのですから、たぶん二十歳前後の学生たちが読むのにいいんじゃないかと思って。最初に『隠喩としての建築』、それから『トランスクリティーク』を読んだ。≫
 私は、この部分を読んで、大沢という社会学者が文学や批評と無縁な人間であることを直感的に了解した。そもそも文学や批評の世界では、年齢の差はそれほど重要ではない。むしろ関係ないと言っていい。前回の芥川賞受賞者の綿矢りさ金原ひとみの例を持ち出すまでもなく、あるいは二十歳そこそこで『夏目漱石』論を書き上げた江藤淳を上げるまでもなく、いつでもプロになれるのが文学や批評というものの恐ろしいところだ。二十歳で社会学者や経済学者にはなれないかもしれないが、作家や批評家には二十歳でなれるのである。この素朴な社会学者・大沢真幸には、作家や批評家という危険な存在に対する「畏れ」というものがまったく感じられない。

浅田彰は、柄谷行人の「空洞化」を賛美しているだけだ。
 浅田の発言にも違和感を感じた。たとえば、こう言っている。
  ≪柄谷さんの著作をリアルタイムで読んできた者としては、柄谷さんは理論家ではなく批評家であり、テクストを書き捨てながらどんどん次へ次へと動いていく……≫
 浅田は、実際の柄谷行人とまったく反対のことを言っている。柄谷行人は、批評家から理論家に転身し、人畜無害な思想家なったからこそ多くの読者(フアン)を獲得し、浅田彰のような崇拝者を周辺に集めることが出来るようになったのである。
 ところで、柄谷行人の本質は哲学でも経済学でもなく、あくまでも文学や批評である。柄谷行人自身も、しばしば、自分の仕事は「文芸批評」である、と言っている。
 柄谷行人は、初期の作品を集めた『柄谷行人初期評論集』『畏怖する人間』『意味という病』という評論集の頃は、秋山駿や江藤淳、あるいは小林秀雄を高く評価し、しかも彼らからかなり深く影響を受けていた。柄谷自身も認めているように柄谷行人という批評家の本質はそこにあった。かつて柄谷行人も思想や哲学を批判する事こそ批評であるという立場にいた。たとえば柄谷行人の「埴谷雄高批判」がそれである。
 しかし、柄谷行人は、ある時期から、文壇や論壇の主流派である左翼陣営や思想派に妥協し、秋山駿や江藤淳について語らなくなった。
 最近の柄谷行人の読者やフアンは、たとえば秋山駿を読んでいないはずだ。秋山駿だけではない。おそらく柄谷行人という批評家にとって重要な先行者たちである江藤淳小林秀雄もろくに読んでいない。読んでいないというよりろくに知らないはずだ。それはおそらく彼らの「資質」の問題である。彼等は、柄谷行人の「外部性」「他者性」「自己言及」「価値形態論」「協同組合」といった、柄谷行人が次々に提出した理論や概念を愛する人たちであって、柄谷行人という批評家の生き方にかかわる実存を愛する人たちではない。
 浅田は、柄谷行人を「リアルタイムで読んできた」と言うが、それは柄谷行人の思考が、文学作品から遠ざかり、「理論化」「概念化」「空洞化」して以後のことではないのか。浅田が愛しているのは柄谷行人の「形骸」である。

■芥川賞受賞作『介護入門』をどう読むか。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」     

芥川賞受賞作『介護入門』をどう読むか。
 すでに本欄でも取り上げ、それなりに高く評価していたモブ・ノリオの『介護入門』が新しい芥川賞に選ばれた。今回の芥川賞の候補には、他に新鋭作家として私が最近高く評価している絲山秋子の『勤労感謝の日』や、あるいはすでに三島賞受賞作家で、一部では覆面作家としてもてはやされている舞城王太郎の『好き好き超愛してる』などもあったが、大方の予想に反して『介護入門』があっさり受賞してしまったらしい。
 なぜ『介護入門』だったのか。
 そこにはやはり「文学とは何か」、「小説とは何か」という根本的な問題が絡んでいたように思われる。言い換えれば、『介護入門』は、他の候補作に比してかなり本質的、原理的な小説作品だったということだ。誰も積極的に押したわけでもないのに、いつのまにか、他の候補作品を押しのけて、あれよあれよというまに受賞作に決定してしまったらしいことが「選評」からもうかがえるが、まさしく『介護入門』はそういう不思議な小説である。この小説にはそれだけの「目に見えない力」が潜んでいる。
 むろん、それは、この小説が「老人介護」という現代的な社会問題を取り上げ、それをうまく作品化したということとは関係がない。はっきり言って「介護問題」はダシに使われているだけである。この小説は、麻薬中毒の不良息子が突然、呆け始めた祖母の看病を異常な熱心さで始めるというストーリーだが、老人介護は単に素材であり舞台装置であるにすぎない。ここでは老人介護という舞台設定の上で、極限的な一種の文学的思考実験が繰り返されている。ここには作者の並々ならぬ鋭敏な批評精神と存在感覚の発露がある。むろん、そこにこの小説の深さがある。
 そういうことに無自覚なままこの小説を読むと、芥川賞選考委員の一人である河野多恵子のように「モブ・ノリオの『介護入門』の受賞は意外であった」と言ってしまったり、また石原慎太郎のように、「この作品には、神ではない人間が行う『介護』という現代的主題の根底に潜んで在るはずの、善意にまぶされた憎悪とか疎ましさといった本質の主題が一向に感じられない。」というような見当違いの批評をしてしまうことになる。
 「介護」という現代的な社会問題にこだわりすぎるから、批評精神や存在感覚というような小説的問題の本質が見えなくなるのである。イデオロギー的次元(素材、舞台装置、テーマ)にばかり気を取られて、存在論的次元の問題が見えないのである。むろん、小説の存在根拠は存在論的な次元にある。それを支えるのは批評精神と存在感覚である。
■物語構造や言語体系を破壊し再創造せよ。
 そもそも石原慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を受賞した時も同じような文学的思考実験がなされていたのである。そこにも、素材や舞台装置としての若者たちの新風俗(太陽族?)だけではなく、過激な批評精神と鋭敏な存在感覚が横溢していた。それは素材やテーマとは必ずしも連動してはいない。ちなみに石原慎太郎はそれ以後『太陽の季節』を超える作品を書いていない。むろんそれは決して批判されるべき事ではない。むしろそれは、『太陽の季節』という小説が、二度と書けないようなそういう深い存在論的な、そして神秘的な小説だったということを証明している。『介護入門』も、『太陽の季節』ほど派手ではないが、そういう種類の作品であることは間違いない。
 本質的な小説とは、われわれが保持している既成の物語構造や言語体系を破壊し再創造してしまうような何かをその作品の内部に秘めている。われわれは小説を読むことによって存在そのもののの神秘と源泉に遭遇し、自分自身の存在の崩壊と創造を体験する。
 一編の小説を読むことによって人生観が変わることがしばしばある。そしてその後の生き方までも変えられてしまう。そういう不思議な力を秘めているのが本来的な小説の力である。それは覚醒や転向をもたらす神秘的な宗教体験に似ている。
 モブ・ノリオの場合、そういう思考実験の具体的な現れの一つが、 
 ≪YО、FUCKIN、朋輩(ニガー)、俺がこうして語ること自体が死ぬほど胡散臭くて堪らんぜ、朋輩(ニガー)。夢かリアルか、コマーシャルか、コマーシャル・ビデオか、麻の灰より生じた言い訳か、悟っては迷う魂の俺から朋輩(ニガー)へ、どうしたって嘘ばかりになるだろうから聞き流してくれ。≫
 という「ラップ的文体」とか言われているものだろう。
 モブ・ノリオはこの一つの作品で「文学界」新人賞を受賞し、同時に芥川賞まで受賞してしまった。作者にとっても実質的にはおそらく第一作目の作品であろう。純文学の恐ろしさはそこにある。モブノリオには、もう二度とこういう作品は書けないかもしれない。しかしそれでいいのである。芥川賞は伝統的に努力賞ではない。当たり外れの大きい、いわゆる一発勝負の新人賞である。だから芥川賞作家には、芥川賞の受賞を機に消えていく作家が少なくない。芥川賞受賞がピークになってしまうのだ。言い換えれば、芥川賞にはそういう海のものとも山のものともわからないような不可解な作品がしばしば選ばれるということだ。選考には失敗も多いが、しかし成功した時には、新しい歴史の1ページを切り開くようなとんでもない作品が選ばれることになるのだ。
 ■『介護入門』は何処から生まれてきたのか。
 「文學界」9月号の「モブ・ノリオ徹底インタビュー」と前田塁の「小説の設計図(第二回 虚構の(非)強度)」、あるいは浅田彰の「熊野大学日記から」(「文學界」10月号)や津島佑子の「中上健次がいた」(「すばる」10月号)、柄谷行人の「近代文学の終わり」(「早稲田文学」夏期号)などを読むと、モブ・ノリオという作家が、どういう時空間から生まれてきたかを知ることが出来る。
 ではどういう時空間か。それは中上健次亡き後、柄谷行人渡部直已浅田彰島田雅彦奥泉光……らを中心に、いわゆるポスト・モダン派と言われている作家や評論家たちが、毎年、中上健次の故郷・新宮で開いている夏期文学セミナー「熊野大学」である。私はこのグループの動きに対して、特に柄谷行人を中心とする露骨な政治的党派性のゆえに、いつも批判的であったが、モブ・ノリオがこのグループの中から生まれてきたということを知って、考え方を改めざるをえないと思った。モブ・ノリオは、このセミナーに「生徒」として頻繁に参加し、かなり強い影響を受けているように思われる。それは『介護入門』という作品の批評性とも無縁ではない。モブ・ノリオは、インタビューに答えて、こう言っている。
 ≪――学生時代、中上健次ゆかりの熊野大学夏期セミナーに参加されていた体験は大きかったのではないでしょうか。
 モブ  熊野大学は、専攻科の夏に三回行きました。94年の三回忌セミナーで、初めて奥泉光さんが来はったときからです。浅田彰さん、柄谷行人さん、渡部直已さんも参加されていました。
――どういう刺激を受けましたか。
 モブ  こと文学に関しては、それまで大学の中しか知りませんでした。でも、熊野大学セミナーが終わって、柄谷さんたちが野球しているのを見物しながら内藤という決定的な友達ができたり、……。≫
 モブ・ノリオは、大阪芸大の専攻科のころ、熊野大学に参加し、そこで様々な人間関係を築き、その人脈を通じて、近畿大学柄谷行人やジャーナリスト専門学校のスガ秀美の授業をニセ学生として聴講し、東大の自主ゼミでは、みずから声をかけて古井由吉を招き、一年間の講義を受けるなどしている。おそらくモブ・ノリオは、この頃、まだ何物でもなかったにもかかわらず、現代の日本文学の最先端を担う作家や評論家たちと、親しく交流している。むろん、似たようなことをしている学生や作家志望者たちはたくさんいたであろう。しかし、モブ・ノリオの小説の持つ批評性がここらあたりの人間関係や交流から影響を受けていることは間違いない。今時としては珍しいマンツーマンの師弟関係からモブ・ノリオという作家は誕生したと言っていい。
■マスコミ的物語から遠く離れて……。
 私は、文学や小説の地盤沈下の大きな要因の一つが、新人作家誕生のシステムが同人雑誌などによるマンツーマンの師弟関係から文藝雑誌の新人賞中心に移行したことにあると思っている。昨今の新人作家の多くは、身近に先輩の作家や批評家たちと接する機会がない。つまり作家や批評家を存在として知る事なしにデビューし、どちらかといえば、雑誌の編集者の言いなりになっていく例が多い。
 モブ・ノリオも「文學界」新人賞からデビューしてはいるが、他のの多くの新人作家たちとは事情が少し違っている。つまりテビュー以前のモブ・ノリオの交遊関係を知ると一種の驚きを感じるのだ。モブ・ノリオは、柄谷行人浅田彰だけではなく、ほぼ同世代の文藝評論家・池田雄一などとも親しく交流していると言う。やはり、そうだったのかという驚きを禁じえない。
 さて、モブノリオは、芥川賞受賞決定直後の記者会見に奇抜な格好で現れ、そこで奇をてらったような、おかしなパフォーマンスを演じたらしい。そしてそれは新聞記者たちにかなり不評だったようだらしい。その後のマスコミ報道にそれは反映している。新聞、週刊誌、テレビは、モブ・ノリオに対して、また『介護入門』という作品に対して、いずれも予想以上に冷淡であったように見える。前回の芥川賞の受賞者は、19歳と20歳の女性であったこともあって新聞の第一面に大きな顔写真とともに、マスコミが愛好する立身出世的な「メロドラマ」として紹介されたが、モブ・ノリオの場合は、まったく逆だったようだ。
 しかし、モブ・ノリオは、マスコミに無視されることを敢えて選択したように見える。むろんそこにモブ・ノリオという新しい作家の新しい批評と存在論がある。モブ・ノリオは、マスコミの物語的な期待の地平に収まることを拒絶したのである。その拒絶のスタイルにこそモブ・ノリオという作家の新しさがある。つまりそこに新しい批評と存在感覚が生きている。
 前田塁は、この「拒絶の姿勢」について、こう書いている。
≪「文學界」という文藝雑誌の新人賞を獲得したモブ・ノリオ氏の小説「介護入門』が芥川賞をかっさらい、坊主頭にサングラスにTシャッという風貌、マイクに向けてのダイビングと「舞城王太郎です」というひとことで始まった記者会見のおかげで、よく言えば時のひと、口悪いむきにはイロモノ扱いされているのは御存じのとおりだが、氏の友人が撮影したというVTRで全貌を確かめれば、それらはたんなる「目立ちたがり」ではなく、現代の「小説」をとりまく困難への抵抗の身振りにほかならないことがよくわかる。≫
 

■「長崎少女殺人事件」と「ネット罪悪論」(7月号)

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山崎行太郎の「月刊・文芸時評」(「月刊日本」7月号)
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■「長崎少女殺人事件」と「ネット罪悪論」

 かねてから少年犯罪に着目し、しかも文学と犯罪を同じような人間の存在論的行為とみなしてきた秋山駿が、今月も(「文学の葉脈(十)」「新潮」七月号)、こんなことを書いている。

  ≪翻って今日の現実を見てみよう。自己紛失の光景はいっそう深化しているようだ。文学より犯罪の方が指標になる。未成年による理由なき殺人が、それだ。自己紛失の場面に素直に無邪気に直面した者が、混乱の頂点で、自己発見へと走る。それが、犯行である。それは、人が初めて詩を書くときの自己発見の行為と、同じである。だが、その自己発見が、詩では自己想像の行為となるが、犯行では強烈な自己破壊の衝動になってしまう。(この二者の分岐点が、未だ私には分からない。明らかに考えることが私には出来ない。)ある少年の犯行者は、人間がそれほど壊れやすいものであるか否かを、「実験」してみた、と言った。自己紛失は、同時に、人とはどういう生き物であるかという意味の紛失、人生という生きる上での運命的な意味の紛失をもたらす。だから「実験」するのだ。≫

 秋山駿の言うことは正しい。文学(詩)と犯罪は同じように「虚無」からの実践であり行為である。凶悪犯罪がわれわれの関心を引き付けるのは、それがきわめて人間的な行為であり、実存的な実践だからだ。つまり、意味を喪失した人間による意味の探究と回復の試み、それが犯罪である。

 ところで、秋山駿が予告したように、またまた世間をアッと言わせるような衝撃的な凶悪犯罪が起きた。長崎県佐世保の小6少女が、同級生の友達の首をカッターナイフーで10センチも刺し、その後15分間も死体とともに過ごしていた、(一説では死んだ被害者の頭を踏んだり蹴ったりしていた・・・…)という「長崎小6少女殺人事件」である。言うまでもなく、ここにも自己喪失に直面した人間がいる。

 ところで、最近はいつものことだが、こういう凶悪事件がおきると、例によって警察、マスコミ、学校、人権派弁護士らによる一方的で過剰な情報操作によって、パソソコンやチャット、あるいは「2ちゃんねる」(巨大掲示板)がやり玉に挙げられるのが通例だ。、今回は、犯人の少女がチャットのカキコミが犯行の動機であると告白したために、いち早く安直な「ネット批判」や「チャット批判」が爆発した。まるでパソコンやネットが真犯人であるかのように。そして中には「子供からパソコンをとりあげろ!」という過激な発言をする人まで出てきている。これが、いわゆる「わかりやすい答え」の捏造による真実の隠蔽であることは言うまでもない。文学や批評が闘わなければならない敵は、そういう擬似問題の捏造と真実の隠蔽工作である。

 今、パソコンやチャットが批判の対象として狙われるのは何故か。それは、そこが現代の情報の集積地だからである。少女自身が告白しているように、たしかにパソコンのカキコミから事件は起こったのだから、この凶悪事件の原因はパソコンであり、チャットである、と言うのは間違いではない。しかし「ネット元凶論」はあまりにも短絡し過ぎている。

■「2ちゃんねる」が日本を救う日。

 この事件について、ネットに「はまる」ことによって、「現実」と「虚構(ヴァーチャル)」の区別がつかなくなった、あるいはネットでは顔が見えないために悪口や批判が過激になり憎悪が増幅され、それが犯行の引き金になったのではないか、というような通俗的な分析や解釈が横行している。

 ところで、この事件は、私は別の意味で重要な意味を持った事件だと思っている。それは「ネット社会が小説の文体を変える」よな事態がおこりつつあることを暗示しているからだ。おそらく長崎の少女もそのネットによる文体革命の流れに飲み込まれたのであろう。たとえば、明治20年頃から始まった「言文一致体」は、明治維新後の国家改造の一環として起きた「文字改革」の結果として生まれてきたものである。言語改革による言文一致体の確立によって人々は「小説を書く」ことを覚えた。誰でも容易に小説を書くことができるようになったのである。小説の大衆化と小説の特権化はそこから始まった。

 前回取り上げたモブ・ノリオの「介護入門」や十文字美香「狐寝入夢虜」が、あるいは川端康成賞を受賞した糸糸山秋子がそうであったように、最近のすぐれた小説の文体には大きな地殻変動が感じられる。一種の「ネット的文体」の登場とでも呼ぶべき変化である。言文一致体は、「漢字中心文化」から「音声言語文化」の転換の結果として起こったものだったが、いま、小学生の少女たちまでが大人顔負けの文章をネット上に書きこんでいるが、それを可能にしたのはパソコンでありネットである。

 私は、新聞やテレビがネット批判に夢中になるのは、読者をそちらの方に奪われつつあるからだと思っている。現にこの私ですら、パソコンを本格的にやりはじめてからテレビや新聞の情報に興味がなくなった。「はまる」という言葉があるが、文字通り私もパソコンとネットに「はまった」一人である。

 パソコンやネットの中の何が引きつけるのだろうか。何故、人はパソコンを始めると夢中になるのか。それは、ネットが「書く喜び」を提供しているからだ。かつて、小説というものもそういう危険な魅力を備えていた。文学少女や文学少年は、親や家を捨ててまでも「小説家になる」ことをめざして上京してきた。むろん社会は彼らを厳しく批判し、排除しようとしたが。

■中年世代にとってパソコンとは何か。

 パソコンと言えば、中原昌也の「私の『パソコンタイムズ』顛末記」「文学界」七月号が、最近のパソコン事情を描いて面白い。「週刊パソコンタイムズ」というパソコン雑誌の編集長として大成功している「多賀氏」への取材を通して、浮き沈みの激しいパソコン業界の内情とその結末が描かれている。若いときにはかなりの乱暴狼藉繰り返してきたと言う多賀氏。いまだ独身で、ハードコアポルノに「癒し」を求めていると言う多賀氏。しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いだったその多賀氏も、取材から数年後には雑誌は廃刊し、しかも彼自身も酔っ払い運転のダンプカーの降臨に巻き込まれて死亡したと言う。

 パソコン業界の先頭を走る情報エリート・多賀氏の話に次のような部分がある。

  ≪現実の女性よりもこうしてハードコアポルノの雑誌やヴイデオの中の女性たちの方がどれだけ人間的で優しいことか。もう女性なんてこういう世界のイメージだけで十分です。全部虐殺してしまってもかまわないんじゃないでしょうか? いやいや、これはあからさまに反感を買うような間違った意見なんでしょうけどもね。そもそも人間なんかよりも、こうしてハードコアポルノの雑誌やヴイデオなんかに囲まれて暮らしている方が心も休まりますよ。≫

 ここには、いわゆる「現実」と「虚構(映像)」との転倒が語られている。しかし実は、われわれが自明の前提として考える「現実」というものも厳密に考えれば虚構に過ぎない。現実の女よりビデオの中の女にリアリティを感じる。それは決して不自然なことではない。

  南木佳士の「こぶしの上のダルマ」(「文学界」七月号)にもパソコンとの出会いが描かれている。手書き、ワープロ、そしてパソコンへ。これが一般的なコースだが、その乗り換えの様子を、旧世代の視点から描いている。南木佳士の世代がどのようにしてこの新しい文明の利器であるパソコンに出会い、それをどう使いこなし、どう受け止めているかを知る事ができる。

 南木佳士は、ワープロに関しては、それがまだ100万円もする高価の貴重品だった時代に購入し、小説の執筆に愛用していたらしい。ところがそのワープロが故障したことで、修理を依頼すると、すでにワープロそのものが製造中止であることを知る。しかも勤務先の病院までがパソコンを導入し、医療活動自体がパソコンで管理されるようになる。

 こうしてパソコン生活が始まるが、やはり本音は、「生の人間と生死の話をしながらつながっていたいのだ」と思っている。やがて自分のパソコンも購入し、レッスンの成果もあって、≪ブロードバンド、インターネット、メール、デジカメ、とお決まりの入門コースをたどってスキャナーにたどり着き≫、パソコンに山の写真などを取り込めるまでに上達する。そこで昔の古いアルバムの写真を取り込もうと思い立ち、幼年時代に住んでいた田舎の廃屋を訪ねる。しかし、廃屋の空気が、スキャナーでパソコンに取り込むというたくらみをあっさり捨てさせる。

 ≪アルバムは廃屋の押入れに入っているからこそ、捨て去るべき記憶としての価値がある。パソコンのスライドショーのなかにこの写真が出てきたらきっと目をそむけるだろう。≫

 南木佳士は遅ればせながらパソコンを取り入れ、デジカメによる写真の取り入れまで修得したが、結局、パソコンの世界にリアリティを感じることはできない。ここに南木佳士の限界を見ることは容易だが、それは仕方のないことだろう。しかし私は、文学的にはパソコンに対する驚きと違和感を持ちつづける南木佳士の素朴さを信用する。

 ■猪瀬直樹の「菊池寛論」は夏目漱石小林秀雄を超えたか。

 道路公団民営化問題などで忙しい猪瀬直樹が、一方で「菊池寛論(評伝)」を連載していたことはあまり知られていないだろうが、その菊池寛伝が完結し、本になったことを記念して「文学界」が特集を組んでいる。むろん「菊池寛特集」はすばらしい好企画だが、菊池寛擁護論から夏目漱石批判にいたる猪瀬直樹の主張そのものには若干の疑問を感じないわけにはいかない。私見によれば、猪瀬直樹のモチーフは「大衆文学中心主義」による「純文学批判」である。菊池寛伝ではそれがさらに増幅されその思想が露骨になっている。

 かつて、小林秀雄大宅壮一を比較して、大宅壮一の方が本の売れ行きがいいから、大衆的なレベルではあまり売れない「小林秀雄的批評」より「大宅壮一的評論」の方がすぐれていると宣言した猪瀬直樹だが、今でもそう信じているのだろうか。ちなみに「小林秀雄全集」は最近、二回も出ているが大宅壮一全集はどうだろうか。今でも刊行され読まれているだろうか。言わぬが花だろう。要するに猪瀬直樹には批評的思考力と存在論的思考力が欠如しているのだ。

 さて、最後に、太宰治が、弘前高校時代に学校の機関紙に書いた新発見小説「哀れに笑ふ」が「新潮」に載っているので一読したが、さすがだと思った。小説は文体である。太宰治の気持ち悪くなるような柔軟な思考力は、その文体と無縁ではない。今月発表されたどの小説よりもエロチックで刺激的である。小説とはこういうものでなければならない、という見本がここにある。






■政治家は、なぜ、もっとも小さな問題でつまずくのか。

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山崎行太郎の「月刊・文芸時評」(「月刊日本」6月号)
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■政治家は、なぜ、もっとも小さな問題でつまずくのか。

福田康夫官房長官に続いて菅直人民主党代表も年金未納問題で辞職を余儀なくされた。おそらくこれで、長い間停滞していた政界のダイナミズム(健全な派閥抗争?)が一挙に回復されるだろう。
 それにしても、なぜ、福田や菅のような政治家までが、イラク問題や北朝鮮問題、あるいは経済失政や憲法改正問題のような「大きな問題」ではなく、年金未納というような「小さな問題」で失脚することになったのか。不可解に思う人がいるかもしれない。しかし不可解でもなんでもない。政治とはそういうものである。しかし政治ジャホナリズムや論壇はこれを忘れる。
 これは文壇と論壇の言説の「構造的差異」という問題にもかかわっている。文壇は小さな問題に固執するが論壇は大きな問題を強調する。そこに論壇的な言説に特有の落し穴がある。大きな問題こそ「真の問題を隠蔽する装置」に過ぎないのだ。
 たとえば福田官房長官の場合、政治的才能も政治的貫禄もないマイナー政治家であることは誰が見ても明々白々である(軽薄な歩き方とお得意の薄ら笑い!)にもかかわらず、何を勘違いしたのか政権の枢要ポストである「官房長官」の椅子に長々と居坐り続け、挙句の果ては外務大臣(総理大臣?)気取りで政権を私物化、政治的、経済的な停滞と混迷を深めてきた。それを許したのは我々国民であり、論壇ジャーナリズムである。原因は何か。ジャーナリズムや大衆が、大きな問題(物語)に目を奪われて「小さな問題(物語)」に固執してこなかったからである。
 菅直人の場合も同様だろう。女性スキャンダルや長男立候補問題で明らかに政治的には死んでいるにもかかわらず、「大きな物語」(自衛隊イラク派兵や経済政策……)を語りつづけることによってそれを隠蔽し、延命し続けてきた。これは、現代の政治的、経済的な国家的停滞の元凶である小泉純一郎総理の場合にも当て嵌まる。論壇ジャーナリズムも大衆も、その口先から次々と繰り出される「大きな物語」に幻惑されていまだに小泉政権を支持し続けている。小泉純一郎の家庭生活や三男問題、あるいはオペラ趣味のような些細な問題をもっと追究すべきだろう。そこに政治家・小泉純一郎の存在本質が隠されていることは自明なのだ。憲法改正構造改革北朝鮮問題というような大きな物語に幻惑されてはならない。
 しかし論壇ジャーナリズムにはそれが出来ない。たとえば、今回のイラク人質問題で被害者とその家族の言動の中に、小さいが本質的な欺瞞とペテンを嗅ぎつけ、厳しいバッシングを浴びせたのもマスコミや論壇ではなく、「人道支援」や「人命尊重」という大きな問題とは無縁な一般大衆とネット・ジャーナリズムだった。

■やはり新人賞受賞作はおもしろい・…モブ・ノリオ『介護入門』を読む

 「神は細部に宿り給う」と言うが、常に細部に固執し、そこから問題の本質に迫るのが文学と、論壇からは軽蔑されているスキャンダル・ジャーナリズムである。文学の生命線は、誰もが無視し、見ようともしない些細な問題(物語)を発見・着目し、延々と分析・描写を続けるところにある。一見、無意味な行為のように見えるが、結果的にはそれが国家や歴史をも動かす原動力になるのである。日本という「近代国民国家」を作り出したのも、実は有名無名の群小作家たちが創造した「言文一致」という近代的散文であった。文壇の言説や小説家の文章を侮るなかれ……とはそういうことである。
 さて、今年も新人賞の季節がやってきた。受賞作として「文学界」6月号にはモブ・ノリオの「介護入門」という奇怪な作品が、「群像」6月号にはこれまたかなり風変わりの十文字美香の「狐寝入夢虜」(きつねねいりゆめのとりこ)という作品が掲載されている。いずれも新人賞に相応しい型破りの小説である。おそらくこういう作品をベテランや中堅の既存作家に期待するのは無理だろう。
 モブ・ノリオの「介護入門」は、タイトルが示すように介護問題を扱っている。しかし別に現代日本が直面している社会問題としての介護問題を扱っているわけではない。介護を素材にし、介護の現場を詳細に描いているはが、問題は介護問題にはとどまらない。介護問題以上の何かを追究しているがゆえにこの小説は衝撃的だ。
 社会的には敗残者でありながら、大麻(マリファナ)を吸いつつ寝たきりの祖母の介護に熱中する若者、それが主人公だ。この若者は、会社社長の息子なのだが、一種の世捨人で、社会からは脱落した人間である。社会から脱落した人間が現世から脱落しつつある祖母を異常な情熱で介護している。脱落者であるが故に介護が可能なのだろうか。これは介護という極限的な状況からの詳細な報告である。この若者が実践している介護はなまやさしいものではない。具体的に言えば、キレイコド(論壇的な言説!)を並べ立てはするが、下の世話までしなければならない介護の現場からは逃走し続ける叔母たち(実の娘)がいる。彼らの自己欺瞞に対する怒りがこの小説を一種の反社会的な小説たらしめている。ここにこの小説の深さと謎がある。これは単なる介護小説ではなく、介護という現実を通して人間の実存と道徳を描いた小説と読むべきだろう。
 「俺は毎晩人を殺す気でばあちゃんの下の世話をするんだ、実ににこやかにな」と気楽に語る若者の脳裏には介護という社会問題などはない。愛する自分の祖母を一心不乱に介護するという現実があるだけだ。介護とは何か。老人問題とは何か。若者にとってそんなことは問題ではない。老人と若者は一種の仲間なのだ。
 軽いラップ調の文体で、半分ふざけながら、半分本気で介護に立ち向かう青年の背後から何か恐ろしいものが立ち昇ってくるのを見逃すわけにはいかない。誰が、これほど本気に介護という現実に対面し、また介護という実存的な状況を描いたか。
 こんな場面がある。

 ≪電動ベッドの上で下肢が固まったまま、おそらくは余生の大半を送るはずの祖母は、一日何回ぐらい死にたいと心から願うのだろうか? 日によっては、陽光が明るく差し込む朝から正午あたりまで、祖母はさめざめと泣き続ける。が、俺はそれを最悪だと思ったことないぜ。最悪は稀にそれを目撃したからと一緒に連れ泣き、はたまたその時間偶然その場に俺に対しあたかも己だけが知ったことのように得意気に語る下司野郎、つまり俺の叔母のような存在だ。実の親が介護ベッドで横たわる隣室で、『人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだ方がましやわ』と得意気に番茶を啜りながら嘆息していた奴が、祖母の枕元で『お母ちゃん、辛いなあ』と無知特有の自己満悦にも等しい涙を流すのだよ、一度も襁褓を替えようともしたことがない己を省みることもなくね、朋輩(ニガー)。陳腐な悲劇ってのはいつも月並みで特権的な語り手を作るんだってな。俺もそのお仲間だと? ha、ha、どっちでもいいさ、好きに決めてくれよ。但し、この俺なくしては、ばあちゃんは介護さえ受けられなかった身体だったってこと、YO、こいつに関しては尊大に語らせてもらうぜ、俺はこの件の権威なんだ。≫

 この作者の批判と批評はかなり過激である。社会的な言説を吹き飛ばすだけの力を秘めている。今まで、これだけ低い位置から介護や老人問題を論じたり、描いたりした論文も小説もないだろう。
 私は、この小説で作者は、−「介護とは何か」なんて論じていないと言ったが正確ではない。語る言説のレベルが違うだけで、充分に語っている。介護者についてもヘルパーについても、親族についても。
 この小説は、現代風のラップ文体を駆使し、諧謔と怒りと悪意を秘めた「新しい私小説」として読むことも可能だ。むしろ車谷長吉の影響を濃厚に受けた過激な「私小説作家」の誕生と見た方がいいかもしれない。
 ちなみに、モブ・ノリオは1970年生まれ。奈良県桜井市出身の33歳。大阪芸大文藝学科卒。現在無職。

 十文字美香の「狐寝入夢虜」(きつねねいりゆめのとりこ)も、モブ・ノリオに負けず劣らずの痛快な傑作である。一見、古めかしい文体と装置を装っているが、その作品の質は新しく実に新鮮な衝撃に満ち満ちている。昨年「文学界」新人賞でデビューし、芥川賞は若い二人に奪われたものの、強烈な皮肉と諧謔で新風を吹きこんでいる絲山秋子が、先ごろ「川端康成賞」を受賞したらしいが、絲山秋子に続く、繊細、且つかなり図太い神経を持つ女流作家の誕生と言っていい。
 この小説の主人公も社会的には典型的なオチコボレである。しかも楽天的。絲山秋子モブ・ノリオの作品に通低している。
 「鳥子」は無職である。職を探してはいるが働く意欲はない。最低限飢え死にせずに生きてさえればそれで満足するような女である。友人や家族に依存し居候を繰り返しつつ、口先では高尚なことを言っている。

      ■山本義隆の大作に血迷った批評家たちへ

 一方では、「文学界」6月号に、山本義隆の総計1千ページに及ぶと言う評判の大著『磁力と重力の発見』(大仏次郎賞,毎日出版文化賞受賞)に対して、大時代的なお世辞批評が載っている。が、私はそれを一読して興醒めすると同時に、これは文芸誌の自殺行為ではないかと思った。別に褒めてはいけないと言いたいわけではない。その褒め方があまりにも常識的、社会的すぎる。文芸誌でやることではない。場所が違うだろうと思う。取り上げるなら、東大全共闘議長として大学制度を批判し知性の反乱とやらを唱えた山本義隆の欺瞞と裏切りを暴くべきである。30数年後に平凡な学者の仲間入りですか。
 しかも、山本の大著を論じている野家啓一池内了の文体と発想は、まさに学会の紀要的なもので、批評的センスに著しく欠けている。極端に言えば、大きければいい、長ければいい、という内容無視の物量主義的発想である。分厚い著書を粗製濫造する小黒ナニガシの思想史と同じである。こういう空疎な物量作戦を、一行で粉砕するのが批評であり文学であり小説であろう。柄谷行人は、かつて知性の叛乱や大学解体を唱えた山本等に対して、出来るなら「知性の叛乱」とやらを徹底してやってみろ、と批判したことがある。この「大著」がそれだというのだろうか。中身がないから量で勝負しただけではないのか。メロドラマである。
 私は、こんな物欲しげな「大著」より、大学入学と同時に読書きちがい、古書店めぐりのきちがいとなり、83歳の現在まで60数年をかけて随筆やエッセイの古書を集め続け、随筆とエッセイの違いについてすでに400枚の原稿を書いたが、あと400枚は書かなければならない、しかし83歳になった今、体力がそこまで持つかどうかわからない、この随筆とエッセイの交通整理を私からひきついでくれませんか・・・・・・と古書店主に語りかける老人の話(松浦弥太郎「随筆とエッセイ」「群像」6月号)に感動する。松浦のこの文章はわずか二ページのエッセイだが鬼気迫る内容である。
 ここにも大きな物語と小さな物語の違いがある。いずれにしろ、山本の「大著」は論壇では通用するかもしれないが文壇や文芸誌では通用しない。それを褒め称えるのは文芸誌における文学精神の衰弱以外のなにものでもない。






■文壇的な社交よりも文学精神を優先せよ!(「月刊日本」五月号)

yamasaki32004-04-10

 ■文壇的な社交よりも文学精神を優先せよ!
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 私が、最近、注目している笙野頼子柳美里、それに新人の絲山秋子の三人の女流作家が、それぞれ個性的で挑発的な作品を発表しているので、この三人について書いてみよう。というのは、この三人の作家とその作品には、近頃では珍しくなった、存在の根源に根ざした激しい文学的怒り(根元的な差異)が存在するからである。これは文学の不振や停滞が叫ばれる中で貴重である。つまり彼女たちは文壇的常識と化している「文学批判」論や「文学は終わった」論とは無縁であり、むしろ逆に徹底的に文学的であり、文学主義的である。つまり文学そのものを肯定し擁護している。言い換えれば、今や、それこそが文壇においては反権力的、反制度的だからだ。文学は、こういう文壇的固定観念を無視した反制度的女流作家たちによってかろうじて維持されていると言っていい。

 逆に、文学的怒りを喪失してもっぱら文壇的常識に依存し、文壇内の「社交」と「ポスト」に耽溺しているのが男性作家や男性批評家たちである。たとえば、私は、19歳と20歳の芥川賞作家を選考した先頃の「芥川賞選考会」では、一人か二人の選考委員がこういう選考方法と選考結果には納得できないと席を蹴り、やがて選考委員の辞退問題にまで発展するのかと思っていたが、選考委員を辞めるような作家はどこにもいなかった。ここでも文学よりも社交が優先しているのである。今や文学などに命を賭けるのは愚かであり、選考委員という肩書きを優先するのが常識なのである。文学や小説が地盤沈下するのも当然だろう。

 ところで、私が先に挙げた女流作家たちは社交的ではない。笙野頼子が、大塚英志との「売り上げ文学論争」を契機に「群像」から追放(絶縁宣言)されたことはよく知られているが、柳美里も「八月の果て」という「朝日新聞」連載小説を連載途中で打ち切られたと言う。彼女等は、出版社と絶縁したり、新聞社から追放されるほどに過激なのだ。新人の絲山秋子でさえ、生涯、不遇のまま貧乏するだろうがそれでも「売れない純文学」に固執し、それを書き続けていくと宣言している。

 ■福田と島田は何故、論争を回避して社交に逃げたのか?

 これにに対して、たとえば福田和也島田雅彦のような男たちはどうか。先頃、島田雅彦の『無限カノン』をめぐって激しい批判の応酬を繰り返し、これは文学生命を賭けた大論争に発展するのかな期待させたのだが、この二人は、その期待をあっさり裏切って嬉々として手打ちの対談にのぞんでいる。(「新潮」5月号)。

これでは文学も批評も成立しない。私などははじめから、この論争は「馴れ合い」の「ヤラセ」だろうと予想はしていたが、それにしても不甲斐ない結末というほかはない。二人は、なぜ、論争を避けるのか。これはまぎれもなく、今、彼らがその存在の根源に根ざした文学的な怒り、つまり文学に対する根元的な違和感を持っていないという証拠ではないのか。

 たとえば島田雅彦は、この対談で、こう言っている。

 「この三部作の中ではまぎれもなく皇室に触れていますから、いくら微妙なとろを曖昧にしても、自分の天皇観を表明することは避けられません。」

 しかし、そう言いながら、決して踏み込んだ発言はしていない。「自分の天皇観を表明するのは損か、得か・・・・・・」と言った「損得」の次元へ逃げている。つまり島田雅彦にとって天皇制は、一種の話題づくりの素材に過ぎなかったのであって、島田雅彦自身の存在に深く関わっているわけではないと言うことだろう。「などてすめろぎは人となりたまいし」という恨みの言葉で自らの天皇観を表明し、天皇という存在に全身全霊を賭けて挑戦した三島由紀夫とは雲泥の差である。それは福田和也についても言えるだろう。「お勉強」としての天皇制談義に終始しているというのが、私の感想である。それでは小説も批評も成り立ちようがない。

  ■「朝日新聞夕刊」連載の柳美里の「八月の果て」は何故、打ち切られたのか。

 対照的に、柳美里の「朝日新聞夕刊」連載小説「八月の果て」が、あまりにも挑発的で、支離滅裂な展開に業を煮やした編集部によって途中で打ち切られたらしい。当然といえば当然の処置だが、何はともあれ、柳美里が妥協せずに、そこまで問題を深刻化させ、連載中断という異常事態を引き起こしたことを、作品の評価は別にして、私は尊敬せずにはおれない。おそらく新聞の連載小説が作者に継続の意思があるにもかかわらず、打ち切られるという事態は前代未聞の珍事とでも言うほかはない。

 ちなみに、その中断された「八月の果て」の続編完結部分の一部が「新潮」5月号に掲載されている。次号の6月号で完結ということになるらしい。私は、柳美里の小説や評論を高く評価しているが、すべてを評価している訳ではない。いつも、「限界を越える」というところが柳美里の作家としての才能だが、しかしこの小説家の場合は、それは決していい効果を与えていない。明らかに、限界を越えているだけではなく、ハメをはずしすぎている。それは、在日という問題にかかわっている。

 柳美里自身が、「在日」ということでその種の問題に敏感なのはよく理解できるが、私は、柳美里の歴史問題や慰安婦問題に対する論理展開には批判的だ。『仮面の国』に纏められた「右翼サイン脅迫事件」や、韓国人女性への「プライバシー裁判」等のエッセイでも、私は柳美里を支持していない。日本のナショナリズム植民地主義を批判しながら、韓国・朝鮮のナショナリズムには鈍感で、逆にそれを美化する論理も明らかに破綻している。いわゆる在日という問題になると、柳美里は急に「正義の人」というロマンチシズムの虜になる。そこに柳美里の欠点と限界があることは言うまでもあるまい。

 この「八月の果て」という小説にも、その欠点と限界が露呈している。柳美里の文学的ラディカリズムは評価するが、この小説はいずれ打ち切られるべき小説でしかなかった、と私は思う。

 小説は、マラソン選手(李雨哲)とその一族(柳美里の先祖?)を軸に展開する。彼は、1940年の「まぼろしの東京・オリンピック」のマラソン出場に夢を賭けていたが、戦争の激化でオリンピックが中止になり、挫折する。やがて祖国を捨てて日本へと逃亡、パチンコで生きていくことになる。対照的にベルリンオリンピックでは、同じ民族の「孫基禎(ソンキジョン)」が「日本人」として金メダルを獲得し優勝する。しかも、弟が共産主義運動にかかわり、逮捕されたあげく虐殺されたという体験も持っている。

 明らかにこの小説は、柳美里の自伝的なルーツ探しの小説だが、素材が伝聞や資料に依存しているために小説としてのリアリティーが感じられない。特に日本という「敵役」を前提に成立しているために、自己批評性にとぼしく、逆に一族の自慢話に堕落しかねない危険性を秘めている。この小説では、韓国・朝鮮人は「被害者」として設定され、無制限に美化される存在となっている。たとえば殺された弟について。

 「『左翼運動に関係のない学生たちも涙で顔を濡らしましたよ 慶南商高のものはみんな先輩のことが大好きでしたよ』 すっすっはっはっ 『われわれ下級生たちは憧れておつたし 上級生たちは信頼しておったし 先生方は誇りにしておりました 成績優秀で足が速くて美男だというだけではなく』・・・・・」

 この一節に見られる「節度のなさ(自己批評の欠如)」は、韓国・朝鮮語を多用した小説の文体にも反映している。柳美里の果敢な文学的挑戦を認めながらも、こういうところに柳美里の小説の限界を感じる。「在日韓国人ならすべてが許される」かのような戦後的な言説空間がたしかに存在した。それを支持してきたのが朝日新聞だった。皮肉なことに、朝日新聞も、柳美里のワガママに付き合い切れなくなったということだろう。

  ■笙野頼子の「金比羅」と絲山秋子の「勤労感謝の日

 柳美里と同じようにポレミカルな女流作家に笙野頼子と、こちらはまだ新人だが絲山秋子がいる。いずれも論争的でラディカルな作家であると私は見ている。

 私は、笙野頼子の評論やエッセイも高く評価している。たとえば、「純文学の時代は終わった」とか「純文学と大衆文学の違いはなくなった(クロスオーバー)」とか安直な情勢論で文学を解読する批評家や文芸記者を相手に激しい論争を挑んだ(『ドンキホーテの論争』に纏められた・・・)純文学擁護論争は、この作家が平凡・凡庸な作家ではないことを立証している。

 しかし笙野頼子も、柳美里と同じく、批評的言論の限界をよく自覚している。そこであくまでも小説という器で勝負しようとする。私はその点では、柳美里笙野頼子も高く評価する。批評的言説はわかりやすいが限界がある。その差異を自覚した時、作家は作品に向かう。むろん批評家も同じである。批評家もまた批評的言説の限界を見極めた末に、時評的言説を中断し、「批評の作品化」という困難な道へ方向転換する。小林秀雄吉本隆明江藤淳もそうした。柄谷行人もそうしている。

 さて、笙野頼子の「金比羅」(「すばる」4月号)は、柳美里の小説と同じく自伝的な小説である。

 「伊勢」神宮の近くに生まれた「私」(笙野頼子?)は、伊勢という中心的な神になじめない。自分は、伊勢の神ではなく、「金比羅」である、という自覚を持つことによって「私」の存在の危機を乗り切り、やがてその自覚の元に生きていく。

「一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました。自分でも判らない衝動からです。というか、神の御心のままに、そうしたのです。」

 これが「金毘羅」であり、「私」の誕生である。「金毘羅」という神については、こう書いている。

 「ようするに金毘羅はわけの判らないものだ。というより構造だけの存在、反逆的なものだ。その反逆性が人の信仰を自在にさせる。それこそが金毘羅の実体である。」

あくまでも中央の神(伊勢)にたいする場末の反権威的な神(金比羅)という対比が、笙野頼子存在論であるようである。むろん、その構造は日常的な世界に対する文学的な世界の構造でもあろう。 

 絲山秋子の「勤労感謝の日」(「文学界」5月号)は、総合職で就職した女性が、いつのまにか負け犬のような存在になり、失業保険をもらうようになる。そして突然、見合いの席に座らせられるが、大恥をかかされ、怒り狂うという話である。

 柳美里笙野頼子絲山秋子に共通するのは無尽蔵の怒りである。この怒りのないところに文学や批評は存在しない。その意味で、この三人の小説は、いくつかの問題を抱えてはいるが、これからの文学を考える上でも指針となるであろう。

 男たちよ、社交よりも文学を優先せよ。文学は立身出世の道具ではない。

■山崎行太郎の『月刊・文藝時評』 【「月刊日本」4月号】

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」4月号
>
> ■小泉も菅も、なぜ、外野席の男・高杉晋作に改革者の理
> 想を見るのか?
>
> 19歳と20歳の芥川賞作家誕生で100万部以上も売れた
>という「文藝春秋」3月号に、芥川賞騒動とは無縁だが、かな
>り面白い批評的エッセイが載っている。磯田道史の「平成の
>宰相論 高杉晋作の呪縛」がそれである。サブタイトルには、
>「小泉も菅もなぜ高杉に改革者の理想を見るのか」とある。
>磯田は、「新潮」3月号にも書評(野口武彦の新著『南畝』)
>を書いているが、こちらも批評的になかなか鋭い書評になっ
>ている。筆者は初めて名前を聞く人だが、文学の問題とも深
>くかかわっているので、まずこの問題から始めたい。
> そこで、磯田は、小泉純一郎菅直人安部晋三等、「平
>成日本の政治家たち」の読書法から読書傾向、あるいは歴
>史趣味について厳しい理論的、且つ学問的批判を展開して
>いる。私も、かねがね「小泉総理」をはじめとして、最近の政
>治家たちが撒き散らすウスッペラな歴史趣味や芸術趣味に
>は大いに疑問を感じ、そこに、平成日本の思想的・文化的
>退廃と、政治的・経済的混迷の源泉があるのではないかと
>思っていたので、このエッセイを興味深く読んだ。
> 磯田は、「平成の政治家たち」と「明治・大正の政治家
>たち」を比較して、その読書の質に「雲泥の違い」があった、と
>言う。 たとえば、「西郷隆盛西園寺公望などは、読書が趣
>味の枠をこえて、ほとんど生きるよすがになっていたところがあ
>る。」と。しかも彼らの読書は、主に古典(春秋左氏伝、孫子
>新井白石、佐藤一斉・・・)であり、その読書法も、テクストの内
>容を鵜呑みにせずにテクストと批評的に対話し、それを乗り越
>えようとする「批判的読書法」(ちなみに西郷はそれを「対越」と
>言った・・・)だった。西園寺などは、読んでいる本の中に、「私の
>意見は違う・・・」と執拗に「異見」を書き込む奇癖の持ち主だっ
>たらしい。つまり、「西郷や西園寺は、古今の英雄賢者と、直接
>に、話をかわす時間を重んじた。誰かが書いた平易な解説本
>などは読まない。英雄賢者と直談判したいのであって、『取次』
>と話しても仕方がないからである。」
> それに対して平成の政治家たちの読書が古典ではなく、
>面白おかしく書かれた通俗的歴史小説」(誰かが書いた平易な解
>説本!)であると磯田は揶揄し、彼らの読書の貧しさを批判し痛罵
>する。ちなみに、小泉総理は歴史小説が大好きで特に池宮彰一郎
>の歴史小説を愛読している、と「週刊宝石」や「オール読物」等のメ
>ディアにまで登場し、公言しているそうだ。哀れというしかない。
>
>   ■古典を誤解したまま引用する政治家や知識人!
>
> たとえば、小泉総理は総理就任の挨拶で長岡藩の「米百俵」の話を紹
>介し、再選の挨拶では孟子から引用した。
> 「『天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずまずその心志を
>苦しめ、その筋骨を労せしむ。という孟子の言葉を改めてかみしめ、
>断固たる決意をもって改革を推進して参ります』」。
> この挨拶を聞いて、小泉総理の読書量や古典的教養に感服した
>人が何人いただろうか。私は、大関横綱への昇進の挨拶で、意
>味さえろくに理解できないような難解な「四字熟語」を連発して失笑
>を買った「某兄弟力士」を思い出した。
> たとえば、最近の政治家は、理想の人物として、よく坂本龍馬の名
>前をあげるが、それが司馬遼太郎の書いた「歴史の平易な解説本」
>でしかない『竜馬がいく』の受けりであることは明らかだ。そして最近は
>坂本龍馬に代わって高杉晋作が人気らしい。小泉、菅、安部の三人
>が、ともに高杉晋作のフアンなのだと言う。
> そこで磯田は、政治家としての高杉晋作を、常に政治的責任を回
>避する「外野席の無責任男」だったと批判する。つまり、小泉、菅、安
>部、ともに政治的責任を回避する「外野席の無責任男」ではないの
>か、と言っているわけだ。まことに鋭い批判である。
> これに対して、大久保利通伊藤博文こそが、「日本の国家は自
>分の肩にのっている。」という国家体現意識を持った為政者としての
>自覚を持つ政治家だった。しかし最近の政治家で、大久保や伊藤
>を尊敬すると言う政治家はいない。わずかに小沢一郎ぐらいだ。
> 最近の政治家たちは、なぜ大久保や伊藤ではなく、漫画か劇画
>のヒーローのような坂本龍馬高杉晋作にあこがれるのか。それは、
>彼らに政治家として「権力の当事者意識が薄い」からではないのか。
> 高杉晋作のような人物が、物語や小説の主人公として人気を獲得
>するのはいい。しかし、それを政治家たちが理想の人物と見なすこと
>には問題がある。では、なぜ、通俗的歴史小説(たとえば司馬遼
>太郎の小説)で、歴史や政治の本質を語れると錯覚する幼稚な政
>治家たちが増えてきたのか。
> 実は同じような現象が、文壇や文芸誌にも蔓延している。「批評の
>コラム化」とでも言うべき現象ある。おそらく政治家たちも、いつのまに
>かその影響を受けているのではないか。
> 
>  ■文芸誌における「批評のコラム化」を排す!
> 
> 今月、完結した坪内祐三の「『別れる理由』が気になって」(
>「群像」)がその代表である。「誰も傷つかない」、「誰も怒らな
>い」、「まことに人格円満」、「人畜無害」の評論の見本である。       
     
> 私は、この連載が始まった時、これは作家論でも作品論で
>もなく、ただ単に文芸誌の誌面を長時間、独占したいために
>書き延ばしているだけではないのかと思ったものだが、連載
>が完結した今、あらためてそれを確認せざるをえなかった。そ
>して最終回の文章にこんな一文を発見して愕然とした。            「私はこの連載のため、『別れる理由』の本文を含む資料
>読みおよび原稿執筆のため、毎月、平均、三日間をついや
>している。(中略)月平均三日だから、のべ日数にすれば約
>二ヶ月間、私は、『別れる理由』と共にあったわけだ。」
> いやはや。私は、こういう文章を、堂々と書ける図太い神経
>にただ脱帽するほかはない。それにしても「三日間」で書きと
>ばせる連載原稿とは何か。評論に名を借りた身辺雑記なの    
>か、それとも週刊誌のコラム的雑文なのか。
> むろん、批評にも様々な批評のスタイルがあっていい。し
>かし、ただ批判や反撃をおそれて、批評を回避している「優
>等生(劣等生?)の作文」のような評論はやはり批判してお
>かなければならない。賛否両論があることこそ批評の本質
>であろう。                                
三島由紀夫論」で「小林秀雄賞」を受賞して、今や沈滞気味
>の文芸評論の世界で救世主のように思われているらしい橋本治
>が、「小林秀雄」論の連載(「新潮」連載)に続けて、今度は「群像」
>で「平家物語」論の連載を開始した。私はこれにも疑問を感じる。
>橋本の批評に、批評を活性化させるような何かがあるだろうか。
>私にはとてもそうは思えない。小林秀雄論も平家物語論も、並の
>ものだろう。いや、これは厳密に言うと批評ではなく、高尚な文学
>趣味をひけらかすだけの甘口コラムでしかないのではないか。
> 「平清盛・大悪人という定説が生まれたのは、なぜか?日本文
>化の根源を問う、画期的な評論」というのが宣伝文句だが、たし
>かに面白そうなテーマだが、いかにも通俗的なテーマではなかろ
>うか。すでに最初から答えがわかっているような問いである。「誰
>かを怒らせる」ような鋭い問いとも思えない。私が、「批評を回避
>している・・・」というのはそういうことだ。こういう面白い解釈も成
>り立ちますよ・・・という相対主義的批評である。
> 渡部直巳の、「死ンデモ感ジテ見セル 谷崎潤一郎の『家庭』
>小説」(「新潮」3月号)が体現している戦闘的な批評性に遠く及
>ばないと思う。まだ渡部の谷崎論には、文学の本質論に直結し
>た批評性が感じられる。
> 同じように私は、理論的な破綻や齟齬を恐れずに、言語哲学や文
>学理論を総ざらいして、『テクストから遠く離れて』という連載評論
>を強引にまとめ上げた加藤典洋や、評論集『ジャンクの逆襲』を刊行
>したスガ秀実等の批評に軍配をあげたい。橋本の評論は人畜無害な読
み物だが、加藤やスガの評論は、近づけば、お互いに         
>血が吹き出すかもしれないような論争的な批評性を備えている。
> 坪内祐三橋本治、あるいは三浦雅士等に代表される最近
>の文芸誌的批評は、逆方向に向かっているように見える。つ
>まり、「批評の回避」「批評のコラム化」「批評性の喪失」の方向
>である。批評とは闘争や論争をともなうものだろう。論争を回避
>する高尚な文学趣味系の評論家たちの台頭は批評の衰弱の
>結果以外の何物でもない。
> スガは、文芸誌から匿名批評欄がなくなってから文芸誌の衰
>退は始まったと言うが正論である。しかもスガは、玉石混合とは
>いえ、今や「2ちゃんねる」の書き込みに批評があると指摘して
>いる。まったく正しい。
> 
>  ■今月の小説について                
               
 母親の娘に対するイジメ問題をあつかった増田みず子の「大事
>な人」(「新潮」3月号)が鋭い問題を提起している。最近、母親に
>よる幼児虐待がしばしばマスコミの話題になり、その種の問題に
>対する議論も活発に展開されているが、そこでの議論では常に母
>性愛が前提にされている。母親は子供を無条件に愛し、無償の
>愛情を注ぐものだ(そうあるべきだ・・・)という前提である。しかし現
>実には躾や愛情の大義名分の元に母親によるイジメや虐待は続
>いていると思われる。
> 増田みず子は、この小説でまさしくその問題を取り上げ、魅力的
>な小説に仕立てている。小さい頃は自分の娘を厳しく支配し、抑圧
>しておきながら、娘が独立し始めると逆に徹底的に無視し、会おう
>ともしない母親。娘との交流を拒否して、「呆ける」寸前まで二人       
>だけで暮らそうとする老夫婦。両親の娘への虐待と恨み。予想外の
>展開でちょっと驚く。微温的な世間の常識に挑戦する秀作だ。
> 吉村萬壱の「岬行」(「文学界」月号)は、社会からはみ出し
>た男女が場末の酒場を舞台に繰り広げる絶望的な生活を描いてい
>て印象的だ。しかし、二人の男女の絶望に比して、大学の教育学
>部を出て親に依存して暮らしている主人公の青年には自己批評
>が足りない、と思われる。それは作者自身の批評性の欠如にも直
>結している。
> 鈴木清剛「バンビの剥製」(「群像」)は、成績優秀な優等生であ
>りながら、あまり周囲の人間に好かれないままに成長した「姉貴」と
>同居している青年の話だが、鋭さという点で金原ひろみの「アッシ
>ュ・ベビー」に遠く及ばない。私は、30歳をを過ぎてもまだ「処女」
>ではないか、と弟に勘ぐられているこの「姉貴」の孤独に興味を持
>つが、まだその存在の秘密が描き尽くされていないように感じる。
>一生独身で生きていくと決断し、マンションまで買ってしまった「姉
>貴」の無意識り闇にもっと踏み込み、その秘密を暴き出すべきだ。
> それが文学なのだから。                         
          
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